春の花火

2017.04.12 Wednesday

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    一昨日、宜野湾で花火大会があった。行こうと思いつつも忘れていたのだが、遠くに上がる音に気付いて庭に出てみると、手に乗る大きさの花火があった。日中は25度に気温もあがり、春を過ぎて初夏を迎えたような沖縄の夜。風はさすがに肌寒かったが、遠くの花火は季節外れを思わせはしなかった。そういえば、沖縄に移った年に、日本で一番早い花火大会があると誘われて、芝生の上に座って見上げていた。あれも同じ花火大会であった。打ち上げられ、上空で弾ける。その繰り返しを、漠然と見つめていた。ぼんやりではなくて、漠然という言葉がはまっていた夜であった。漠然と去りし土地と人々を思っていた。僕は6年前の花火と今目の前の花火を交互に眺めながら、過ぎ行く時のあっけなさに、花火のそれをも重ねていた。宜野湾に上がる火の玉は、幾重にも重なりながら、見るものの記憶や想いも重ねながら、あっけなく消えていく。遠くで見れば、光に遅れて音がやってくる。花火というのは、重なりであり、ずれであり、そして消えること。それはあまりにも、誰かと暮らすこと、生きていくことと同じだ。僕は一人のままでいたくはない、と思う。孤独、孤高を、表札にしたり、内緒にしたり、それぞれに手にしながら生きているとしても、僕は自らの孤独を威張ることはしないだろう。生まれて消えていく時は誰もが一人で事を成す、それを威張ることと同じだから。なかなか上手にはなれないが、僕は誰かとやっていくことを諦めないでいこうと思う。今年は久しぶりに逗子の花火大会を見にいこうかな。

    息子の写真

    2017.04.11 Tuesday

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      海を眺めていた龍之介が防波堤の下に造られた遊歩道に飛び降りて、カメラを貸してくれと言う。しばらくして、こんなの撮れたとよこした写真が格好良かった。子供が四つん這いになってどうにか入れる場所からのアングル。スケール感がつかめないと、未来宇宙都市の飛行機格納庫のようにも見える。しばらく見入ってしまった。撮ろうと思えば、大人でも写せるのだが、四つん這いになってコンクリートに膝をこすってまでしてはしないだろう。いいなあ、子供って。子供にしか入っていけない場所があって、そこで撮られた写真がある。いいなあ、子供って。春になると涙もろくなる。龍之介が撮った写真は、コンクリートの写真だけど、なんだかじーんときてしまった。彼にも見たいものがあって、写したいものがあって、いつの日か会いたい人ができるのだろう。そんなことを思いながら、彼と二人で肩を並べて海を眺めていたら、波が高くて、その高さに、うるるときたのだ。なんだろう、春って。写真は不思議だ。自分が見ていないものを、人の眼と人差し指を借りて、見ることができる。それを共に楽しむこと、感動したり、考えたり、泣いたりできる。写真はすごいな、と思う。その素晴らしさを毎日毎日忘れないでおこう。これを書いている時に、ビートルズがこう歌っている。「we'll never die,and I love her」(and I love her) ああ、また涙腺が。

      アラハビーチ

      2017.04.10 Monday

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        暖かいではなくて、暑い。温度計は25度を超えている。では、海でも行こうか、と思い立ち、行きつけのアラハビーチへ向かった。海開き前だが、すでに海水浴を楽しむアメリカ人たちがポツポツ。風が強くて波もたち、あまり快適そうではなかったので、海水浴はやめにして、サンエースーパーで買ってきた弁当を芝生の上で広げて食べた。青空の下で、曇りの下で、とにかく空の下で何かを食べる、それはいつでも美味しいのだが、なぜだろう。きっと心が広がるからじゃないか。心が広がると美味しいが生まれるのだ。気持ちの背筋がすっと伸びて、縮んだ内臓を伸ばして、ようこそようこそと口から喉から入ってきた食べ物を歓迎するからだろう。犬の散歩、スケートボード、ジョギング、恋の散歩、様々な人たちが目の前を通り過ぎていく。微笑みかけてくれる人もいるし、気づかない人もいる。微笑みっていいな。あたたかくなるし、きっと微笑みかける彼らもあたたかいだろう。ビーチにはたくさんのアメリカ人がいて、沖縄の人がいて、観光客はあまりいない。天気予報は仕事の時ぐらいしか見ないから、明日の天気のことは知らない。この風だからきっと崩れそうだ。太陽はいい。雲もいい。雨もいい。何でもいいけれど、今日は晴れているから、晴れた日が好きだ。幸せだなあとしみじみしながら、やりかけの衣替え作業のことを思い出す。あと少しで終わる。いらない服がたっぷり出てきた。冬服を圧縮袋に詰め込んで、あの辺にしまおう、などと青空の下で思う。すべてが順調で、これからもずっとずっと幸せが続く予感に満ちているアラハビーチ。

        近所のジャングル

        2017.04.09 Sunday

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          沖縄に戻った時の楽しみの一つが、ジャングルに会いに行くこと。普天間宮へのジョギングコースにあるそれは、橋から見下ろせる緑の塊である。しばし足を止め、その緑の広さと深さに見入る。自宅から10分も走ればこういう風景があることに、毎度驚きと喜びを感じつつ、その贅沢さにいつまでも慣れないままでいる。呼吸も整い、体から熱が引き始めるまで眺めているのだが、その緑の生命力が放つ大きな波に圧倒されつつ、身を任すことの豊かさよ。沖縄には海や空の「あお」があるが、もう一つのアオである「みどり」も忘れてはならない。亜熱帯に属するために、温帯の内地とは異なる草木が時に燃えるように空へと伸びる。その様は、大地の祝祭であり、種族の違いこそあれ、地球に暮らす仲間の祭儀を見物しているかのようだ。厳かな気持ちになるのは、その辺が由来となっている。僕も彼らのように、空へと光へと手を伸ばしてみようか。伸びをするように、つま先を立て、腕を高くあげ、肩を持ち上げて、手の平を空へと伸ばしてみる。なんという心地よさだろう。指の先から何かが放たれるのがわかる。それを何度か繰り返してみる。みどりの仲間たちが近くになるのを感じる。異種だが、同族ではある。そんな連帯感を僕はいつの頃から持ち始めたのだろうか。交感という言葉がある。日常ではあまり使われていないようだが、もっと親しまれたらいいなと思う。人間族という内輪の出来事だけでなく、異種同族との出来事も、日々の場面に増えるといい。

          庭のジャガイモ

          2017.04.08 Saturday

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            一月ぶりに戻った沖縄で迎えた朝は、清々しい。ロードから帰った阪神タイガースの面々はこんな気持ちなのかな。雑草の伸びた庭の一部にある菜園目をやると、ナスタチウムに占領されていて、美しい花は強いのだな、などと思いながら、そこに植えたはずのジャガイモを見つけると、龍之介を呼びつけて芋掘りと相成った。台所で芽を出して鎮座していたジャガイモを二つ無造作に埋めておいただけなのだが、いつの間にやら子孫を残してくれていた。無肥料無農薬のほったらかし農法なのだが、大中小の収穫は、さらに僕の心を晴れ晴れとさせた。収穫祭という言葉があるように、収穫は晴れやかで祭でもしたくなるような気分にさせてくれる。さっそくバケツにいれて泥を落として、庭採れのジャガイモでの料理に心が走る。といっても僕のレパートリーなどたかが知れているのだが、やはりジャガバターは外せないな、などと手を休めずに息子と相談する。ああ、しかし実に気持ちのよいサタデーではないか。空まで駆け上がっていけそうだ。すでに心は千里の彼方を巡っている。されば、体も追いつかん。今朝はジョギングもしたし、スニーカーも洗ったし、あとは心と体を緩やかに動かしつつ、深く楽しく休息を取ろうではないか。夕方には庭でビールでも飲もうではないか。沖縄ではこの季節をうりずんと呼ぶのだが、うりずんという響きの良さに、今日を明るく朗らかに暮らしてみよう。疲れると斜め向きになることもある僕がだ、今日は実に前向きだ。春は美しいな。

            地方新聞集め

            2017.04.07 Friday

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              国内外のどこかに出かけた時、必ずその土地の新聞を持ち帰っていた。インクが匂う紙は、自分への唯一のお土産になっていて、ダンボール2箱ほど集めていたが、葉山から沖縄へと引っ越す時に全て捨ててしまった。イランの新聞、ケニアの新聞、西日本新聞、ブラジルの新聞などなど、読めない言語だとしても、そこには土地の空気がいつまでも染みついているようで、僕のあの時の呼吸もそこに残っているような気がしていた。紙かWEBか?という選択についてはこれからも語られるはずだが、情報を得るというだけの目的ならば、僕はどっちでもいいと思う。その他の、いわゆるアートに属するものについては、紙でなくては成立しないものもあるし、写真も僕は紙が好きだ。まあそこは置いておくとして、眺めるという読み方でいえば、新聞も紙の方がいい。見開いて、地図を眺めるように全体をざっくりと把握するやり方に親しんできたからだ。だが、地方新聞を手にする理由は、情報を得るためではない。何か、こう、その土地とくっつきたいのだ。ホテルの朝食で、地方新聞を広げずにただテーブルに置いて、ご飯や味噌汁を食べているだけで、僕はその土地にくっついたような気になる。外国に行っても同じことをする。新聞を傍らに置いておく。ただそれだけなのだが、もはや儀式のようでもあり、自分でも何をしているのかわからない。くっつきたい。それは僕の土地への関わり方を表しているようだ。その土地について見聞するのは楽しいが、それは大切なことではない。歴史や風土を知るのは確かにとっても楽しいこと。だが、言葉でいうなら、くっつきたい、が一番しっくりくる。くっついたあとでは、さようならが待っている。僕はいつも去る方で、見送る方ではない。今でも人を見送る時に、どんな顔をしたらいいか分からない。いつまで手を振っておけばいいのか分からない。多分、去る人が背を向けてから2秒振り続けたら、さようならが成立するのだろう。去る時の僕は、すでに土地の新聞を持ち帰らなくなっている。くっついたあとで、僕は少し薄情なくらいさっさと去る。見送る人は人情深く、去る人は薄情で気障にもなる。でも誰もがいつかは必ず去ることになる。大切な自分の人生から死をもって去ることになる。僕はその時の練習を丹念にしているのかもしれない。

              古賀崇洋さんの陶器

              2017.04.06 Thursday

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                けやき通りのペルケノーでランチをして、ぶらり歩いていると、ショーウインドーの中に奇妙な物体を発見。近づいてまじまじと眺めるに、陶芸作品だという。作者は古賀崇洋さん。僕は存じ上げていないのだが、これは僕が無知なだけで、知られた存在にちがいない。福岡在住の作家さん。武道とSFを足して割ったような作風である。それはつまり僕の大好物でもある。並んだ他の作品も眺めると、能面を元にしたような皿もある。あいにく展示しているお店が閉まっていたために、触れなかったのが残念だ。陶器との相性を触れて持ち上げてみなくては。しかし、ガラス一枚挟んでの対面は、故宮博物館にいるかのようでいて、それはそれで楽しい。どんな手触りかを想像し、その使い道を想像し、それを使う日々の場面をも想像する。そして、ぴたりと府に落ちたら、いよいよ長財布のジッパーが鳴るのだ。そういえば、ここ福岡にて、財布を新調したっけ。モノグラムの大きめのオーガナイザー。パスポートも入るタイプだ。さてはともかく、その宇宙陶器を目の前にして、土に限らず、僕たちの体や、それをとりまく全ては、宇宙物質なんだよな、という思いにふけた。至極平凡な発想ではあるが。かぐや姫伝説を、人間の宇宙への憧れととるか、地球外生物との交流ととるかは、分かれるところだが、人間は古来より、夜空を眺め、その奥にある目と会話をしてきた。遠く遠くに憧れて、想像し、心をほぐし、その柔軟性が人類を進化させる一つの動力となったかもしれぬ。そんなことを考えさせてくれる古賀さんの作品は福岡の土地から、宇宙への帰還を待ちわびているようでもあった。縁があれば、触れてみたい。

                福岡を走る

                2017.04.05 Wednesday

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                  福岡では、けやき通りを走るのが好きだ。大濠公園も気持ちいいだろうが、ヨーロッパの街を感じさせる朝のけやき通りを抜けて行く時、まるで映画の主人公にでもなったかのような大錯覚を楽しめる。オフィスへと急ぐ人もまだ少ない頃にタッタッタとアスファルトをこすって走る時、今日も素晴らしい事ばかりが起こる予感が満ち満ちて、めまいがするほどだ。名書店キューブリックや無農薬野菜屋さんなどを横目にタッタッタとゆけば、悩みなどちんけなものは僕自身が起こした走風によって、微塵もなくなる。恋せよ乙女、走れよおっさん、などと微笑みながら福岡の朝は立ち上がってゆくのである。けやき坂通り沿いのマンションに一部屋借りるのもいいなあ、などと時々端正な建造物を見上げては、飲めないコーヒーを片手にお気に入りの公園のベンチへを目指す自分を想像する。バックにはなんとなく太宰治を入れてね。彼の短編はとっても読みやすい。内容はどうであれ、するすると入ってくるので、公園読書などにはうってつけだ。そして、読後は必ずちょっと豊かな感じにさせてくれる。本を読む喜びとでもいったらいいか、そんなのをくれる。ありがとう治さん。きっと品がいいのだろうね。そう僕は品のいい人が好きなのだ。むろん、気取った人とかお高い人ではない。身だしなみとか服の趣味とかでもない。野生動物のリーダー的な存在が持つあの気高さを持った人が好きで、それはさりげない所作にも見られていて、僕が街の中で、おおおっと目がゆくのは、そういう人たちだ。福岡で走る。けやき坂を走る。ショーウィンドーに自分が映る。見る。まだまだだなあと思う。想像しているよりも自分の所作は野暮ったい。おどおどとしている。まあ、いいかと気を取り直す。走り続ける。急がない。

                  長崎産特大はまぐり

                  2017.04.04 Tuesday

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                    福岡の蕎麦屋に入った。白金にある侘介は、東京に住んだこともある夫婦がやっている江戸蕎麦屋で市井の山居と銘打っている。暖簾をくぐって中に入れば、確かにどこかの山居を訪れたような古民家である。居心地がいい。鷹勇を一合と、湯葉の刺身、そして今日のおすすめとあった長崎の特大はまぐりを注文した。鳥取の酒は旨かった。湯葉も旨かった。で、はまぐりの酒蒸し。これがこれが旨かった。九十九里浜でのロケに行けば、撮影後に必ず食べるのが焼き蛤であった。九十九里浜という固有名詞は、椎名林檎さんの歌詞に出てくることで印象深いのだが、僕は千葉生まれなので、元から九十九里には馴染みがある。だがもはやそれは林檎さんの歌詞に出てくる浜である。故郷の浜ではない。不思議のものだ。はまぐりと聞けば、九十九里も続くと言われた長い浜が思い出され、林檎さんが思い出される。彼女は元気かなあ?ウエディングドレスを着ていただき、上野の路地を走り抜けた撮影は、僕の中でも眩しく残っている。で、なんのことを話していたかと思えば、長崎のはまぐりのことである。薄口の特大を口いっぱいに頬張り、汁を一滴も漏らさず胃袋におさめれば、故郷の浜と、林檎さんの疾走とが、ぐるぐるとなって、体の中を巡り巡った。幸福だったといえよう。しめには十割蕎麦を一枚、塩でいってみた。大人になっている自分を福岡の夜は、さらりと吸収した。

                    AIR MAX90の黒

                    2017.04.03 Monday

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                      春が来たので、新しいスニーカーを買った。定番なのにAIRMAX90を買うのは久しぶりだ。しかもオールブラック。春なのに、黒。冬には白いスニーカーばかり履いていたからなのだろうか、原宿のナイキストアのスタッフの方とああでもこうでもと相談して決めた。移動、旅、の多い僕なので、荷物は最小限にとどめたい。履いている靴をそのままジョギングにも使いたいのだが、エアフォースだと硬くて重すぎる。色は黒と決めていたので、選択肢は案外少なかった。もう何度も何度も色を変えて履き続けてきたAIRMAX90だが、履くたびに新鮮だ、というのは嘘で、けっして新鮮ではないのだが、長い旅のあとで家に帰ってきたように落ち着く、というのも嘘で、改めて履いてもどうってことはない。おそらくそういう何度も何度も飽きてきたデザインというのは、これからも飽きていくのだろう。でも不思議と時々戻ってしまうのだ。メーカーが出し続けててるからにすぎないのだが、結局いつものパンを買ってしまうようなものだ。美味しいからとかいうのもあるが、面倒なんだな。つまりは。いろいろ考えたり、感じたり、そういうの面倒だな、って時あるよね。で、カレーでいいやって時、あるよね。エイプリルフールに嘘をつく習慣があったってすっかり忘れていたよ、っていう感じ。ちょっと世界で起こっていることに数分遅れてしまっていて、追いつくの面倒だがから、僕は時代から数分遅れでいきますよ、といった気分。それが僕がAIRMAX90黒と黒を選んだ理由です。