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2017.07.27 Thursday

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    薔薇の名前

    2017.05.12 Friday

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      ショーン・コネリー主演の映画「薔薇の名前」。修道院が舞台の重々しい映画であるが、詳しくは覚えていない。主催する瞑想ワークショップへと代田橋で下車して歩いていると、道が交差して作った中洲的な一画が花壇になっていて、黄色いバラが咲いていた。遅刻気味だったのだが素通りできずに数枚撮った。7のポートレイトモードで背景をぼかして。見事な咲ぶりだが、場所が中洲なので、しっかりと眺められることは少ないであろう。人目を集めていない動植物には特有の野生の兆しがあって、それは町にあって異物として僕に察知される。人目というのは、対象を変質させてしまうので、本来のものを見たければ、人から離れた場所に行くのが手っ取り早いが、実は死角にもそれはポツンとあったりする。見えているが、気づかれていないものたち。彼らは発見されることを待ちわびることなく、巡り合わせに抵抗することもなく、ただそこにあるように見える。これらのことは、花のことではなく、僕の感じ方に過ぎないのだが、考えることは時にうっとおしい。黄色い薔薇に習ってただ揺れている今日でありたい。

      ピエロのハンバーグ

      2017.05.10 Wednesday

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        大阪肥後橋にあるハンバーグの名店ピエロに行ってきた。品は3つだけ。ハンバーグ、焼肉、この2つを合わせ盛ったミックス。営業は売り切れ終了のランチのみ。老夫婦が厨房に立つ13席のカウンターのレストラン。僕は大阪出張時には必ず寄るようにしている。小ぶりで厚みのあるチーズハンバーグは見た目こそ普通だが、ナイフを入れて口に運べば、目尻は下がり、心は歓喜の声をあげる。隠し味の干し葡萄が甘く混じり、昭和100パーセントの店内が淡く揺れる。幸福である。付け合わせのもやしニラ炒めとポテトフライも適している。さらにお気に入りは、お母さんの掛け声。焼きたてのジュージューバーグをカウンター越しによこしながら、「よっしゃ!いこかー!」と歯切れの良い大きな声をかけてくれる。受け取る時に気合い注入されるのか、誰もが黙ってもぐもぐ食べるのだ。980円の会計を済まして去る時に、「ほんま、おおきにー」と背中に威勢のいい温かい声。元気にしてくれるキッチン。永く続きますように。

        高速バス

        2017.05.09 Tuesday

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          沖縄中部の自宅から那覇空港へは高速バスを利用している。1時間弱の読書はありがたいし、書き仕事も進められるので重宝している。時々かまいごとから目を離して車窓から亜熱帯の風景を楽しむことだってできる。視点の高さと緩めのサスが、ならではの揺れを浮遊感へと高めては、日常からの離脱を促す。ああ僕はこれから一旦暮らしから離れて、出張へと向かうのだなと。席は最前列、運転席とは違う側が理想で、船の帆先を感じては、映画タイタニックを思い浮かべたりもする。相席になることも多く、ちらりと会釈を互いに交わして座った直後の、ちょっと恥ずかしい感じもいい。バックパック、カメラバック、スーツケースというお決まり三点セットをよいしょと積み込みホッとする瞬間もいい。高速バスっていいなあ。僕は7時台に乗ることが多いから、高速を降りれば、人々の1日が動き出すのも眺められる。みんな眠たげで重そうで、それらがなんだかいいなあと思う。さて今日も楽しく無事でありますように。

          デイゴの花

          2017.05.07 Sunday

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            THE BOOMの「島唄」の出だしで有名な花であるが、実際に見たことのある人は少ないと思う。デイゴの木は、幹太く、どっしりとしていて、情熱的な赤い花を咲かせるような木には一見見えない。木登りにうってつけの枝ぶりだが、尖った部分もあり、熱帯原産だけあって、内地の木とは様子が違う。沖縄に移住した時分に、公園などにあるその木の異相を見上げ、随分と遠い所に住むことになったなあと思ったものだ。沖縄の県花でもあり、見事に咲く年は、台風がたくさんやって来ると言われている。咲く季節に沖縄にいたりいなかったりで、年ごとの比較は出来ないが、今年はその赤い花を随所で見ているので、もしかしたら台風の年になるかもしれない。こんな風に花の咲き方で、天候を予想するというのは、なかなかいいもので、他には百合が咲いたら梅雨入りなどというのもある。酒とタバコを愛しているようなお爺さんが、百合が咲いたからとか、デイゴの花が見事だから、などと語り始めるのは、風情があっていい。僕もいつか爺さんになったら、そんな風に小さな予言をしてみたいものだ。花といえば、我が家には先人が植えたかと思われるバナナの木があって、いつか実をつけるのだろうと楽しみにしていたのだが、そのうちに素晴らしいい花を咲かせた。その花は極楽鳥花で、つまりバナナの木ではなかったのだ。つくづく僕は温帯出身者なのだと知った。亜熱帯に住んでいる今でも、実も心もまだまだ温帯者なのだろう。顔だって体つきだってきっとそうなのだ。ということは、やはり僕はこの島では異人さんであり、そういうことなのだ。沖縄はそろそろ梅雨に入る。それと入れ違うかのように、僕はまた数週間の出張へと出る。温帯に向かうのである。

            一年前のパリ

            2017.05.06 Saturday

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              髭を伸ばしていたのだ。どんなだろうな、という好奇心だけで。すでに10センチ以上になり、しかと握れるほどに達していた。そんな折のパリでの個展であった。1年前の今日の写真である。フランス人ギャラリーオーナーの奥方と収まっているが、どういう状況だったかよく覚えていない。ちょっと照れているようでもあるから、何かの会話があったのだろう。うつむいているので、わかりずらいが、しっかりとした髭面である。髭で坊主頭なので、なんとなく目立つのだが嫌になって、もうやめてしまったが、写真を見るとそんなに悪くない気もする。だが、もうやらないだろうな。顔立ちと妙にはまって宗教家のように見られがちで、合気道で道着姿になれば、先生のようにもなってしまい、なんだか申し訳なくなるのだ。見れば派手なコートまで着ているから、いったいどういう気だったのか。きっと春だったのだろう、頭の中が。まあ、それも過ぎてしまったこと。晩年に髭を短くしていた、もしくは剃ったりしていたジョン・レノンさんのようにしてこれから過ごすとしよう。そういえば、偉人と呼ばれるような歴史上のビッグマンは、髭の人が多い。きっと今よりも普通のことだったのかもしれない。目の前の本棚にはニーチェさんの髭面があるが、東西問わずに、髭は普通だったのだろう。そういえば友人の11際の息子くんにもうっすらと髭が見え始めてきた。彼もいつかは伸ばしたりするのだろうか。髭が似合うねとか言われたり、好きな女の子から、髭は好きじゃないとか言われたり、いろいろあるのだろうか。そういえば、僕が始めて髭を剃ったのはいつだろう。全く覚えていない。きっと父のT字を使ったのだろう。男たちは髭を剃ることを繰り返しているのだな。よく考えると地球上の男たちが毎朝せっせと髭を剃っているのは、妙な感じである。


              こどもの日に

              2017.05.05 Friday

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                連なる鯉のぼりに今日がその日だと気づいた。ごくごく平凡だが、全ての子供の幸福を願った。全ての、とは言い過ぎの感もあるが、一年に一度のこの日には、そのくらいの大きさで願いたい。無論、ずっと続く願いではあるけれど。日本の各地で舞った多くの鯉のぼりに託された大人たちの愛は、それを想像するだけで目頭が熱くなる。歳のせいだろうか。僕が眺めた風景は、コスモスと古民家と青空を背に舞う姿だった。鯉のぼりには断然青空が似合う。この時の晴れがましさは、我が子の成長を願う親心自体が晴れがましいからだろう。誇らしく、そして胸がやけに熱くなる。子供の日が祝日とは素晴らしい。と親は舞い上がっているが、息子よ、君はどうだろう。柏餅以外に何かを味わっているのかな?鯉のぼりを見上げて驚いた顔をこっそり撮ろうとしたけど、失敗した。親だけが舞い上がったか。。。

                今帰仁で今年初海水浴

                2017.05.04 Thursday

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                  梅雨前の沖縄。晴天日を狙ってヤンバルへと北上し、今帰仁の海に入った。ぶるるっと冷たかったが、すぐに慣れて透明な水の中を楽しんだ。河川のそれと違って、海水は肌当たりがマイルドで、塩分のためだろうが、とろりと感じる。そのとろりに包まれて、なぜか貝殻集めに興じた。名は分からないが、小さくて縞々なのを4つ見つけて、海パンのポッケにしまった。男だって、たまには貝殻に惹かれてしまう時もある。今日がその時、年甲斐もなく、目を凝らしてビーチを歩く様は、大型の水鳥、例えばアオサギのようであった。しかしもって、沖縄の海は改めて美しい。ただ透明度のことを言ってはいない。どことなく漂う陰の気配がその美しさのベースにあって、その陰から見るような陽の輝きとのコントラストが、刹那を薫らすのだ。そして僕は、沖縄の海の美しさに目眩がするたびに、何も守るまい、どんどん手放していこうと、妙な気概を得る。美しさにさえ縛られずに、全てを微笑みながら見送っていこうと。今日の喜びは今日のもの。明日へ持ち越そうとせずに、置いていこうと。さらば美よ、今よ、である。沖縄の海は、さようならの海だ。

                  ヒラメを食べる、ARDORにて。

                  2017.05.03 Wednesday

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                    沖縄北谷に鳴り物入りでオープンしたレストランARDORに行った。那覇にあるピッツァの名店BACARのナカムラさんがプロデュースするとあって、沖縄内外の食いしん坊たちがオープニングデイズに集まった。プリフィックスとアラカルトから選べるのだが、迷わず前者を楽しんだ。まあ、その旨いこと旨いこと。同席の友人の太っ腹に甘え、ヒラメもまるごといただいたのだが、こちらも旨いこと旨いこと。オープニングデイズのみのドリンクフリーのせいもあって、いつもよりワインの杯が重なった。ナカムラさんはすっきりと絞れていて、より精悍な印象。店内は広々としている。これは面積のことだけではなく、スペイン、フランス、イタリアといったヨーロッパが誇るラテン三衆の気取りのない大らかな部分と沖縄のそれがミックスされて、比類のない広々感を創っているのであった。壁紙、照明、カウンターの奥行き、などなど、食べる前からわくわく楽しいのは、店主の人生観そのものが映っているからだろう。本当は教えたくない店だが、沖縄料理以外を口にしたくなったら、二重丸で大推薦させていただく。いやあ、本当に旨いもの。さて、ヒラメをまるまるいただいたのは記憶にない。特に大好きな魚ではないのだが、実はどんな味付けだったかもすでに飛んでしまい、かろうじてとっても旨かったことだけは、しかと覚えている。ヒラメには申し訳ないような気もするが、そんな風に、ふわふわと静かに浮かれて楽しんだ。ARDORとは情熱を意味するが、割と淡々としているように見られる僕の本性は、実は情熱家である。と言いたくなるような、何かをレストランARDORは秘めている。ちなみに情熱を鏡に映せば、熱情となり、僕が毎朝顔を洗ってから見ているのも、おそらく熱情家なのだろう。

                    沖縄に戻って

                    2017.05.02 Tuesday

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                      4月も終わり、5月を迎えた最初の日に、沖縄に戻った。三週間ぶりだろうか。今年は沖縄に居つくことが稀で、延べにしても一ヶ月ほどしかいないのではないか。ふらりが好きとはいえ、自分のベッドが遠い日々に、こういう暮らしがいつまで続くのだろうとぼんやり思う。沖縄に戻ると、やはり海が見たくなる。自宅の庭から遠くに東シナ海が見えるのだが、やはり浜に下りたい。夕刻を待って、馴染みの場所を訪れると、太陽が水平線へと落ちていく頃だった。アメリカ人の恋人どおしが二人で寄り添っている。風もない静けさが心地よく、昼と夜との境が目の前にやってくるのだった。境というのは、ちょっと怖くて、そして崇高だ。人間とばかり付き合っていると、気づかない大きな何かを失いそうになるから、僕たちは夕刻の、この揺れるような境の時間に集まっては、空を見ることを好む。僕たちは大きくなろうとしていることもあるけれど、その反面に、自分の小ささを確認したくもあるのだ。小さい自分に安堵する。大きくなりすぎるのは、疲れる。小さくなって、大きな優しい宇宙に守ってもらおうとする。それを僕たちはきっと信仰と呼ぶのだ。信じずにはいられない優しくて大きいもの。僕たちは子供の時ならそれを知っていた。夕刻は美しくて怖くて、でもやはり優しいのだと知っていたのだと思う。夕日も見ている人は、昼間のように数えたりしない。数えたり競ったりしないのだ。僕は沖縄の太陽を眺めながら、忘れ物がない気になっていった。だいたい、今ここにあるな、と。

                      旨し水炊き

                      2017.05.01 Monday

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                        福岡は旨いのである。これはもう仕方がない。空港が近くて、街はコンパクトにまとまり、東西南北に足を伸ばせば美しい自然もあって、、、。といった紋切り型の福岡礼賛には必ず食の旨さが加えられるのも仕方ないほど、旨い。ここに至ったいきさつは知らないが、理由もあるのだろう。僕などの知識欲のない人間には、ここから先へは興味がないのだが、とにかく今日の福岡は旨いことは間違いない。国内外をぶらぶらしてきたが、美味しいなあと溜め息をつかせる街においては、ここ福岡が筆頭格であろう。春の夜、季節の変わり目に先を急がず、しばし立ち止まるようにして、鍋にあずかった。もつ鍋でも良かったのだが、ちょっとした祝いの席であったので、水炊きと相成った。あっさりとコクのある鶏出汁に、箸が止まらない。高校生のバイトの女の子が慣れた手つきで進めてくれるのだが、鍋に落とされた具材がほどよくなるまでの間が、またいいなと思った。冬風の夜に身も心も緩めていただく鍋もいいのだが、うたかたの春の涼やかな夜に食べる鍋には、より風流を感じた。地酒と共にほろよい満腹となる頃には、夜空を見上げなくても、この胸の中に無数の星々があるような幸せを得た。皿の上の装飾はここにはない。鍋というのは、どう品良くまとめても、本質は野趣にある。屋外、山中での食事の線上にある。切って整えた食材をただ煮立った出汁に投入するだけのこと。目を閉じなくても、口にすれば、五臓六腑に草原や海原が開く。書けばこのように印象も切りなく伸びていくのだが、なんてことはない。要は、旨かったのだ。鍋が、そして春が。