蝶の羽化

2017.06.05 Monday

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    sony α7R供FE2.8/90 MACRO

    パイナップルの蔕を鉢に入れて戸外で育てている。しばらくその存在を忘れていたのだが、今朝萎れかかったそれを見つけて、日当たりの良い場所へ移動し、すまんすまん、と見つめると、羽化したばかりの蝶が葉につかまってじっとしていた。これは撮らねばとカメラを手にして急いで戻り、マクロレンズを手持ちでにじり寄りつつパチリパチリ。その蝶は、じっとして撮られるままだ。数多の生物はことごとく好きだが、いかんせん名前に弱い。アゲハのような羽をしているような気がするが、なんとやら。龍之介の昆虫図鑑を開いてみても合致するものがない。沖縄の生き物、という本を開いても同様。珍種なのだろうか、と思いつつ、いやいや、そんなことはないだろう、よく見る蝶のひとつに違いないが、自分が無知なだけなのだろう、などと自問自答しつつ、朝の爽やかな時が流れている。ああ、実に気分の良い朝ではないか。梅雨の沖縄にあって、三日連続の日差しを受けれるとは実に幸運だ、などとも感じつつ、蝶がなおも気になっている。ああ、この空に未だに飛べないのは僕も同じなのだよ、蝶くん。いったい何がこやつを地上に結びつけているのかなあ、と蝶と目を合わせて問う。ファインダー越しに見つめる蝶の身体は産毛に覆われていて、なんという美しさよ。虎の毛皮のようでもあり、伝説の麒麟をも思わせる。こんなにも寄ってじっと見つめないと見えない世界があるのだな、と今更ながら思う。なぜか、ふと昨日のことを思い出す。庭の柵の向こう側から派手な羽音をたててカラスが飛び立った時、大きなネズミを咥えていったっけ。食物連鎖という言葉を初めて聞いた理科の授業。その記憶はまるで残っていない。厳かな印象を受けたのか、先生の言葉が脳を横断していっただけなのか、そんなことは覚えていないが、あの時の授業に一瞬だけ戻りたいと思った。目の前の蝶も、鳥に喰われるのか、寿命を全うして、蟻の餌になるのか。目の前の蝶は、これから青空に舞い上がる時をじっと待っている。良い1日を。良い一生を。

    サタデービーチ

    2017.06.03 Saturday

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      沖縄での土曜日。写真集の構成や図書館での資料探しを終えて、ようやくビーチへ繰り出した16時。海水浴を楽しむ人の多くはアメリカ人。ここに来るたびに無国籍な場所がいかに自分と合っているかを確認する。多国籍、多言語、他民族。スターウォーズでのバーに集まる様々な宇宙人たちとまではいかないが、ある意味僕の理想の状況で、アウェイこそが我がホームである。国内外を月に数度訪れている生活なので、実際ホームである沖縄にいることは月に一週間ほど。行く先々で、一人で食事をすることも少なくない。多言語、方言に囲まれてよそ者でいることが心地いい種族も、何らかで世の中のためにはなっているとは思うが、やはりメインストリームではない。なんでこんなところで地酒を飲んでいるのかな、と微笑んでしまうことも多い。それでもどうにもアウェイがホームなのである。沖縄の中部のビーチで、スペイン語と米語、そして沖縄方言に囲まれて、なんともくつろいでしまうのである。

      手放さなかったフィルムカメラ

      2017.06.02 Friday

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        およそ6年ぶりぐらいに、ペリカンケースを開けた。沖縄の湿度ならば、さぞカビにやられているであろうと思ったが、大丈夫だった。革のストラップは少々やられたが、まあ奇跡といっていい。なんとなく気になって開けたのだが、手にしてみると、これらをハードに使いながら、数々の自称名作を撮ってきた日々がもっさりと思い出された。懐かしいという感情はなくて、明日にでも使い出しそうな気分になれたのは意外だった。ローライの二眼は、標準のプラナーから、ワイド、テレと一台ずつキープしていて、クローズアップに使うローライナーも三番まで揃っている。プラウベルマキナは標準とワイドが一台ずつ。その他には、ライカのM3ブラックとM6は白黒一台ずつ、R6.2とR5が一台ずつ。レンズがそれぞれちょろちょろあるといった感じで、これらが僕がどうしても手放せなかったフィルムカメラたちだ。銀塩からデジタルに移ったのには、時代の流れもあるし、環境への負荷を考えたら、どうも銀塩の選択は無いように判断したからだと思う。銀塩写真の環境への悪影響はあまり聞かないが、もう少し焦点があたってもいいかもしれない。まあ、それはそれとして、改めて愛機たちを眺めて触れていると、むくむくとやはり使ってみたくなる。すでにトライxの36枚撮りを二本手に入れてある。M3は修理に出したので、M6かなと思いきや、なぜかR6.2を選び、50mmズミクロンf2を装着し、フィルムも入れたのだった。そしてさっそくテニススクール直後の龍之介をモデルにネット際でパチリと一枚だけ撮った。ストンと感じるミラーの跳ね返りが心地よい。そうだ、毎日、一枚だけ龍之介を撮ろう、とそれもなんとなく決めたのだった。そして、その直後には、これは再訓練になるなあと直感した。ピントを合わせて、コツンと大切に撮る。かつて尊敬する沢渡さんと話している時に、僕がデジタルしか使っていないことに対して、簡単に撮れすぎちゃうでしょう?と言われたことも思い出した。簡単にさくさく、そしてざっくざっく傑作が撮れてしまうのは悪くないのだが、一枚に始まりと終わりがあることを再度確認するのはとっても素晴らしいことだと実感した。これは今、僕にとって必要だなと直感した。毎日毎日、僕が沖縄にいて、彼と一緒にいる時は、たった一枚だけ撮ろう。撮り直しなんてしない。たった一枚だけだ。それが写真だとは決して言わないが、それはきっと夢見る時間なのだ。夢見る時間が、写真には必要だと思う。ある瞬間に目を合わせて、一枚だけ撮る。ペリカンケース、開けて良かった。

        佐藤直樹さんの絵

        2017.06.01 Thursday

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          行きたいと思っていて忘れかけていたところ、友人からの誘いがあって気づき、なんとか都合をつけて出かけてきた。こういうのも縁というのだろう。行けて良かった。折しも大友良英さんの「二台のギターによるワンマンアンサンブルズ」が催されていて、彼のノイズを浴びながら鑑賞するという、贅沢な一期一会となった。佐藤さんの絵は、板に木炭で描かれた植物や波である。いまだ完結することなく横へ横へと板を継ぎ足して、繁殖してゆく作品である。僕はその躍動をつぶさに観察し、漠然と眺め、背を向けたりしながら、たっぷりと味わったのだが、この彼岸に香りがするもったりとした明暗は沖縄に似ていると思った。明るいのだけど暗く、柔らかくも破れていて、死ぬ前に見てしまいそうな風景たち。描かれた植物や水が持つオーラを佐藤さんが捉えたのか、それとも佐藤さんの中の何かが、植物や水の形を借りて漏れ出てしまったのか。そのどちらでも構わないし、他に出処があってもまた構わない。僕は目の前に描かれた板の繋がりの長さが面白いなあと思った。ずっとずっと続いていくような、すぐにでも止まってしまいそうな、どちらともいえない連なりに感動すると共に、なんとなく面倒くささも感じだ。「秘境の東京、そこで生えている」そうタイトルは告げているが、そもそも僕はタイトルと作品を絡めて感じたり考えたりはあまりしないので、そこはどうでもいい。佐藤さんの手を離れてしまったあとで、そこに残された作品は、もはや誰のものでもない。誰のものでもないから自由だというわけでのなく、その絵はなんとなく不自由に見えた。絵が四角い平面に限定されているという意味での不自由で、見る者に委ねられているというのもなんだか不自由で、そこにあるものは、絵の中にいたくはないような気がした。絵で描かれたくなかったのではないかと。つまりは、そうしても拘束を感じさせるのであった。こういう思いを抱かせる佐藤さんの作品の持つ力は、末広町のアーツ3331で6月11日まで。是非。

          浴衣新調

          2017.05.31 Wednesday

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            東日本橋でのランチには時間があったので、周辺の問屋街をぶらぶら歩いていた。連日の暑さで、浴衣がやけに涼しそうに見えたものだから、買う気もないままに眺めているうちに、ひとつ気に入ってしまい求めることになった。 青と模様が粋に見え、これを着れば、すすすっと歩けそうだ。家に何枚かは持っているが、どれも渋好みで、趣味はいいのだが元気に欠けている。とかいうような理由をこさえて、試着すると担当のお姉さん(50歳以上)が、あれまあ丁度!などと声高に告げ、僕はクレジットカードを出すことになったのだ。辛子色の帯が良いでしょうと、若旦那がいくつかよこす。これは素敵ですね、などと言いつつ値札を見れば、5万円。浴衣の数倍の物に惹かれつつも衝動買いに至らず。店の衆に手を振られて去った後は、ホテルのロビーでスーツケースに詰め込んで羽田へと向かう。次回上京時は、打ち合わせくらいは浴衣で臨もう。お仕事先のご担当の皆様、そして友人諸君、六月は浴衣で会いましょう。

            ヌードを撮ること

            2017.05.30 Tuesday

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              これまで多くの方のヌード撮影をしてきたが、最初のひとりというのは今でもよく覚えている。多くの同業者が自分の恋人を最初の被写体とするように、僕も当時付き合っていた人にお願いした。今でもそのネガは大切に保管してあるが、改めて見返すと、技術的な拙さは否めないものの、こみあげるような感情を忍ばせつつ、彼女と向き合い、繰り返しシャッターを切ったあの時の空気が写し出されていて、なんともいえない感動があった。それ以降、付き合ってもいない女性のヌードをたくさん撮ることになるのだが、裸になった女性の美しさというのは、なぜだか歴然とあって、それには多くを語れないのだが、結局は綺麗だから引き寄せられていくのだろう。それに尽きると思う。僕は、疑似恋愛という言葉で語られることにどうしようもない違和感を持つので、それは擬似でも、本物でもいいが、恋愛ではないとはっきり言いたい。無論僕にとってはだ。あの空気はそういう言葉の網に引っかかるものではないし、もっと自由で美しい。そして少し汚れている。モデルは好きでもない人の前で裸になり、写真家は好きでもない人の裸を撮る。撮影中に昂まる感情を恋という言葉に置き換えるのは安易だ。二人の間で起こることは、自由で美しい。そしてやはり何かちょっとだけ汚れているのだ。ヌードを撮るというのは、その汚れを二人で分け合うことに近いかもしれない。現在一般公募でヌードモデルを募りながら進めている次作は、前作である「sketches of tokyo」から離れたものになりそうだ。前作の乾いた悲しみから進んで、別の何かへと向かっている。行く先は、裸だけが知っている。

              青空

              2017.05.29 Monday

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                今日の東京は、いい天気だ。日々いろいろあるが、外に何かを求めたい時、僕たちに平等に与えられているプレゼントに、青空がある。どんな天才でもこれほど壮大で美しい青は生み出せない。気晴らしとして、お金や時間を惜しみなく使うのも良いだろうけど、心地のいいベンチに座って、青空を眺めて見る。胸の内に広がる果てない青。目を閉じても消えない青。僕たちは青になれる自由があって、そのプレゼントに気づきさえすれば、本当の自分と会うことができる。眉間のシワと肩の強張りから離れて、しばし青になる。

                ブロッコリー落下

                2017.05.27 Saturday

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                  ブロッコリーが落ちていた。ロケハンで歩いていた東中野の路上にて。同行者たちも、ああーだの、あれえだの声こそあげるが誰も拾わない。美味そうないいブロッコリーだ、とまで言う者も結局は拾わない。かく言う僕も通り過ぎた。ラッキー!と思うには、中途半端な落し物で、これが食べ物ではなければ、異なる反応になった。そもそも落し物とは不吉である。持ち主の息吹がかかった何かしらの物は、気配が残っている。売買という貨幣によるエネルギー交換によって、瞬時に買い手の一部になった物には、まあ念がこもっていて、件のブロッコリーにさえもそれはあった。では、念や想いが不吉なのかといえば、そうではない。捨てられた、主人から千切られた物が、行き場を失うと、元に戻ろうと欲する無念さが、悲しみを持って不吉に映るのだ。だがそれらの物体が無念を露出しているのでもない。物体はゼロである。それを見る者の心中の無念が、捨てられた者の形を借りて表出したという事だ。僕たちは全て羊水から出されてしまった者たちである。その時の無念が、時々疼くのだ。

                  モンブランのデッサンペン

                  2017.05.26 Friday

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                    荷物を整理していたら、ずんぐりむっくりの可愛いいペンが出てきた。手の中に収まるサイズで、もしかしたら廃盤品かもしれない。何処で買ったか覚えていないのだが、空港の免税店だろう。もう10年以上も前のことだと思う。要は極太の芯が収まっているシャーペンである。そのぽってりとした肉厚な造りに一目惚れして求めたに違いないのだが、内心これから絵を始めようではないか、という小さい希望があったと想像つく。道具好きな性分が盛りだった頃で、何事につけ、逸品を探すのが好きだった。そういう品を並べて何をしたかったのかは分からないが、悦に入っては物欲を満たしていたのだろう。すでにそういう季節は過ぎ去ってしまったが、必ずしも以降すっきりしているわけでもなく、それはそれで少し寂しくもある。お気に入りの品は、弾みをつけさせてくれるし、つまりは溺れなければいいだけのことだ。このモンブランのデッサンペンを手にいれた頃は、スケッチブックもおそらく上等なものを揃えたに違いなく、振り返れば微笑ましい。で、結局デッサンも進まずに、放り出されて、ペンだけが記憶の地中深くに置き去りにされたわけだ。今、こうして手にしてみると、やはり良いものは想像を掻き立ててくれる。さっそく新しいスケッチブックを買おうかなという気になっているのだから。で、何を書こうかといえば、花なんぞよろしいかもしれない。野に出て、麦わら帽の下で、せっせとデッサンなり、スケッチに勤しむ初夏も悪かろうはずがない。うん、いいかも、いいかも。もともと写生画が好きだし、新たな手習いもいい。ポケットにこいつを忍ばせて、ゆったりと野山を歩こうではないか。ああ、これは十年前と同じ気分なのだろう。繰り返しは楽し。


                    日暮れ時

                    2017.05.24 Wednesday

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                      出張先や旅先で迎える日暮れ時の不安が好きだ。暮らしというのは、どうしたって平凡な安らぎへと向かいがちで、どんなに退屈でも、それが生きるということなのだから、それは構わない。繰り返しというのは実際そんなに悪いものではないし、僕も忙しない日々の合間の安らぎにほっともする。だが、あの不安の美しさは、いったい何なのだろう。それは、合わせ鏡を使ってしか見えない自分の後ろ姿なのだろうか?不安には郷愁も混じる。見知らぬ商店街の角を曲がり、誰かの長い影を踏み、遠い人を思い、どうということのない店で食事をする。その一連が不安で、そしてやたらと綺麗なのだ。一方自宅から眺める日暮れはどうだろう。実はこちらも不安が濃い。充足したような時もあるが、心はざわざわと波立つ。きっと日暮れが本当なのだろう。いや、日暮れだけでなく、白昼も本当で生存の本能が持ち合わせてしまった不安はそれとして、時々涙ぐむなどして楽しむがいいのだろう。今日も日暮れがやって来る。あちこちに。br />