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2018.08.20 Monday

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    ふーみんの搾菜

    2017.03.31 Friday

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      青山にある中華家庭料理店、ふーみんのランチに行ってきた。いつも混んでいて入れないので、開店の10分前に到着しておいた。納豆ごはんを以前に何度か食べたかと思うのだが、定かではない。一番に席に着き、テーブルの上に置かれた山盛りの搾菜に思わず声をあげた。大好物である。これだけでご飯2膳はいける。そんな宝の山を目の前にしては、メニューに注がれた視線も、泳ぐ泳ぐ。そそくさと品を定めて伝えたあと、搾菜を山から小皿に取り、もりこりと食べ始めた。胡麻油と胡麻と唐辛子に絡んだその味たるや、こうこれ、これがやりたかったのだよ、と噛み締めるように心でつぶやき返す。付け合わせで出てくる搾菜には、いつも物足りなさを感じていたし、単品として注文しても、それは変わりない。もっと好きなだけ、たらふく搾菜のみを、もりこりと食べたいと常から願っていたのだ。そして夢の実現のふいの訪れに、僕は歓喜の動揺をもはや隠せないのであった。生きていれば良いことがある、などとじいいんと感じることは滅多にないが、まさに今がその時。time is nowなのであった。何がこんなに旨いのだろう?食感、味、匂い、どれを取っても幸福に降伏するしかないのだ。ああ、今でも思い出すと、よだれに食欲が濡れる。今日はどうも行けそうにない。明日はどうか。明日も無理だ。明後日も無理だ。ああ、世の中ままならぬ。生きていれば満たされぬこともある。

      お能の稽古

      2017.03.30 Thursday

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        大阪から東京駅に着くと、すぐに新富町の大野屋総本店へ向かった。足袋を新調するためである。で、どうせならと老舗へと向かった次第である。二百五十年ほどの歴史をもつという大野屋総本店の暖簾をくぐれば、江戸からふらりと現世に移動したかのよな風情を持つ女性が現れて、対応してくれた。4つの型から合うのを探し、サイズを決める。その一連の流れの中に身を置けば、自分も江戸の旦那にでもなったかのようだ。その夜に参加するお能の稽古に必要となったために出向いたその店であったが、思わぬ楽しさとなった。自身の足に合わせて誂えるには時間が足りないのでそれは次回。さて、その夜は神楽坂某所にて人生初のお能のお稽古となった。先生は、観世流能楽師中所宣夫さんである。慣れない謡曲と仕舞のそれぞれに翻弄されつつも、閃くような瞬間もあった。初めてやったような気がしないのである。前世などを持ち出すのはやめておくが、懐かしさを思った。「自然に添って生活し、またその自然から大きな力を引き出そうとする、自然との交換が基礎にあります」という案内の言葉に深く納得しながら、約90分の稽古を終えると、次はこれかなあと意欲がむくむくするのであった。早足で人生を歩けば、時間が足りなくなり、のんびりと歩けば、間延びする。そんなずれを感じる日常において、様々な調整法があるが、お能に親しむことは、ひとつの休符以上の何かをもたらしてくれる予感を覚える。そんな膨らみを胸に1日を閉じた。数年親しんだ合気道との接点もありそうだ。まあ、そういう真面目なこともいいが、何よりも「趣味お能」とは粋ではないか。またしても俗な自分が耳元で浮ついた声色で囁いている。


        大阪を歩く

        2017.03.29 Wednesday

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          姫路から戻り、準備中の写真集の撮影のために再び大阪に一泊した。年に数度は訪れる街なので、土地勘もつき、友人知人も増える一方だ。ぶらりと繁華街を歩くと、飲食店の多さと活気に圧倒される。よくもこれだけの店がやっていけるなあと感心する。大阪の活気は、大阪人の胃袋の活気なのではないか。移動疲れが出てきたので、簡単に済ませようとうどん屋に入ったのだが、衝動的に串揚げ定食を注文してしまった。旨かったが、案の定一旦のつもりで戻ったホテルで横になるはめになった。仕方なく後に予定していた日本酒バーへの約束をキャンセルさせていただき、日本代表のサッカー試合を途中からテレビ観戦し、就寝となった。写真はホテル近くの阪急東通りあたりで、もしかしたら別の名前からもしれない。わさわさした人混みと、飲食、風俗、などを通り過ぎながら、日本の繁華街の代表は大阪になるだろうと一人に腑に落ちていると、それは中東諸国の市場街スークにも引けを取らないのではと思い至った。それはつまり世界一の繁華街ということになる。さすがに世界一となると、他にも候補がずらりと並ぶのだろうが、そういう思いを引き連れて巡る大阪の街は、酔う前に酔い、酔った後でシラフにならねばと思わせるラビリンズだ。すでに新幹線は新大阪を後にした。今日は始まり、昨夜のラビリンスは日々のページの向こうに隠れた。大阪にいると、次に何を食べようか、とよく考えている。胃袋は過去よりも常に近い未来を夢見ている。

          止まった時計は0時を指す

          2017.03.28 Tuesday

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            二度目の姫路に来ている。写真と瞑想のワークショップ@タイムグラフさんと、次の写真集の撮影が目的。滞在している駅前のホテルのワイドめな窓からの風景が気に入っている。どうってことないのだが、遠くの煙突や近くのホテルの看板などを眺めては、息をついている。右手には時計があり、0時1分を指している。壊れたまま放っておかれているのか、いつも0時1分を指している。時が止まっているというのは、いいもんだなと思う。秒針がチクタク動かない世界は、実にのんびりとして、大らかである。時間の流れの前では全てが等しいなんて、くだらないなと思う。誰かが勝手に時間を止めて、公園で昼寝をしていたら愉快だ。姫路の時計は、動かないまま、なおもじいっとしている。時間を止めることに集中しているようだ。なかなか良い仕事をしているものだ、と感心する。無論、時計が止まったとしても時間は止まるわけではない。遠くの煙突からは白煙がもくもくと棚引いている。子供の時にずっと感じていた工業地帯への憧憬を思い出す。あの感情は、毎日の学校通いからの離脱を夢見ていたのだろうか?工場の造形にプラモデルの世界を見てわくわくしていたのだろうか?ひとりがちだった少年の僕は、冷たい鉄と直線と曲線と、肥大したかのような工業建築の大きさに憧れていた。きっと僕にとって、時間が止まるというのは、工場地帯を眺めていたあの頃に戻ることなのだろう。手の届かない建造物の頂付近の感触を想像したり、煙が雲になっていくのを見つめたり、美術を知らなかったけれど、僕は世界の美しさに見入っていた。時間は流れ続けると人はいう。きっとそんなんだろうなと思う。だけど、止まっている時というのもあって、僕はそのことを知っている人とたまに仲良くなる。

            日本のトイレ

            2017.03.27 Monday

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              赤坂の蕎麦屋で入ったトイレに驚いた。新開発のその機能については、どこかで聞きかじっていたが、目の当たりにすると、日本人の細やかさに改めて感心した。見下ろすと、普通なら透明な水が溜まっているところに、白い泡がたっぷりとある。試しにノブを引いて流してみると、再び水が溜まりながら、白く細い泡がこんもりと再製されるのであった。用をたすごとに洗浄されるというのは、青い水などの製品によって見慣れているのだが、泡は初めて見た。先に知っていた広告の内容を思い出すに、この泡があることによって、用をたした時に、汚水が飛び散るのを防ぐ。小でも大でも、日頃から座って用を足している僕にとっては飛散防止目的がどれだけ必要かはわかりかねるが、効果は確実にあるだろう。それはともかく、新しい技術の向かう先は、どんどん細部へと進む。僕たちが欲していないものでも、新技術をともなう新製品が出現すると、あたかも待っていました!という気分にさせられて、買い換えられたりする。僕は面白いなあぐらいにとどまって、右から左へと技術が行進するのを、小さな拍手で見送る側だ。けっして保守的ではないと思うが、手を働かせれば済むことは、なるべくそうしている。手でなく、体のパーツそれぞれに日々の仕事を与えるというのは、気の流れもよくなる。ちょっとしたことをちゃんと自分でやることは、意外ととても大切なんじゃないかな。

              佐野元春さんとの夜

              2017.03.26 Sunday

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                gotchこと後藤正文さんに誘われて、大阪で行われた佐野元春さん主催の音楽イベント「THIS!」に行ってきた。中村一義、サニーデイサービス、七尾旅人、カーネーション、gotch and the good new times、佐野元春& coyote band (敬称略)というラインナップでの5時間はとてもとても楽しく、そして当然刺激的であった。佐野さんの声掛けに集った個性は、ここに居合わせたことの幸運を聴衆に存分に伝えていたと思う。ステージ終了後にバックステージへと案内していただき、まずgotchと挨拶。近況などを伝えあい、いつもながら懐かしい感触を持った。彼とはもう長い付き合いになりつつあり、会うたびに安堵を感じさせてくれる得難い人物だ。安堵の中には、いつも小さな緊張感もあり、その硬質な何かがきっと僕を彼に向かわせているのだと思う。そんなgotchに佐野さんは歩み寄り、もう二十年ぐらい前に出版された彼が責任編集をしたTHISを差し出しながら、ジャックケルアックの話や、ビートの話をしている。僕は佐野さんに挨拶せねばとタイミングを伺いつつ、手を伸ばせば届く目の前に立っていた。だが、佐野さんはいっこうに僕に気づくことなく話に夢中である。佐野さんはTHISをぺらぺらとめくりながら、ギンズバーグやスナイダーのポートレイトを見せいている。僕は無礼とは知りつつも、話に割って入り、「この写真を撮ったの僕なんです」と挟んだ。佐野さんは一瞬何のことかといった表情で僕を見つめたが、次の瞬間に「なんでここにいるの?」と驚いて微笑んでくれた。嬉しかったのは、佐野さんが僕のことだけでなく、僕との取材旅のことをしっかりと覚えていてくれたこと。あの時は素敵な写真をありがとう、と微笑みながら、なんと僕の頬をつねってくれた。人に頬をつねられたのは、きっと子供の時以来で、それもとても嬉しかった。佐野さんは、ロック界の長嶋茂雄と言われている天然人としても有名で、それには数々のエピソードがあるのだが、あの天然っぷりも愛される理由だろう。僕は確か2年前に佐野さんと沖縄で会っているのだが、佐野さんは二十年ぶりぐらい?みたいなことを昨夜言っていたっけ。だがね、数字なんてどうでもいいのだ、きっと。僕はgotchと会えて嬉しかったし、佐野さんにほっぺをつねられて嬉しかったのだ。そしてそんなことも砂のように風の中でいつかは忘れられるのだ。人は忘れてしまう。だから歌が生まれるのだろう。そんなことをサニーデイも歌っていた気がする。

                夢の国で

                2017.03.25 Saturday

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                  ディズニーシーでは、散歩が楽しい。様々なアトラクションを横目に、細部まで整えられた人口の街並みを歩けば、南欧、ニューヨーク、アラブ諸国、謎の島、などを1時間ばかりでぐるりと出来る。実際にそれらの国々を訪れた目で見ても、良く出来ているなあ、と感心するばかりなのである。そもそも街並みというのは、人口のものだから、上手に再現できていれば、元と偽の違いはさしてないのも当たり前で、僕などのように何処にいてもパッセンジャーでしかない性分からすれば、その違いはますます怪しい。歴史、暮らし、経済活動、街の要素としてこれらが挙げられるが、ディズニーシーにはそのうちの経済活動があり、再現された歴史や暮らしもある。ちょっと気分を入り込ませれば、僕にはそこが本当の街にしか見えない。そして、もう少し考えるに、本当も偽も、実は違いがないことにも思い至る。街とは、そもそもモデルがあって、それに似せて量産されるようなものだ。中国の都をモデルにして、日本の都が建設された事実は、その一例だ。人の様々な文化には雛形とその結果があって、それが細かく繋がれて社会を作っている。地形、緯度、経度、によってそこに暮らす人の衣食住にも類似性が現れるのを、何度も目の当たりにした時に、オリジナルとコピーの差異を僕はいつも軽やかに失ってきた。僕らはどうしても類似し、連鎖する。僕はディズニーシーにある見事な火山とその麓にある街と人との一連を眺めながら、思えば遠くへ来たもんだ、などと僕は心の中で呟けるのだった。国境などないと想像してごらん、と誘われるまでもなく、僕はすでにそれらへの喪失感の先で呼吸をしている。世界中に張り巡らされた、人の知恵が産み出した幻の先で、僕は揺れる足元の不安定を信じている。

                  NIKE SBのパンツ

                  2017.03.24 Friday

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                    言わずもがな、SBとはスケートボートの頭文字で、NIKEのアパレルラインの一つ。ロングボードを少し楽しんでいるので、シャツやパンツをいくつか持っている。デザインと耐久性のバランスがよく、撮影時の作業着と街着、そして旅にももってこいで、重宝している。スケートパークの少年たちと服がかぶるのも悪くない。大人でなければ似合わないものも好きだが、基本無頓着で、ファッションセンスなるものにも自信なく、動けて丈夫、ちょっとしたレストランにも入れる清潔感のある服が、僕の現在の生活には合っているようだ。今回買ったSBは、サイドに通気口があって、普段はジップで隠れている。プライベートでの撮影時は特にたっぷり歩くので、こういった小さな気遣いがとても有り難い。そもそもスポーツアパレルは、写真家の日常着としての機能を満たしていて、中でもSBは、街中の普段着にスケートボードの使用に耐えうる機能を付加した順序があるので、ばっちりなのだ。一度も洗っていない買いたてのSBを履いて歩いた1日は、清潔なごわごわがなんだか嬉しくて、晴天に恵まれたこともあり、晴れやかであった。新しい服はいいなあ。少しだけ自分も新品になった気がする。新品て、いい言葉だ。僕は人を新品な気持ちにさせる作品を作りたい。

                    ある写真家のカメラバック拝見

                    2017.03.23 Thursday

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                      写真家の高木康行さんと銀座ソニービルのあるでん亭でばったり会った。カウンターの端と端に座っていたので気付かなかったが、会計をしている僕に気づいた彼から声をかけられた。ちょうど僕の写真展に寄ってくれたのだという。首からはソニーのα6500がぶら下がっていて、相変わらず軽くシャッターを切るのだった。その後場所を写真展会場に移して、写真や機材談義にしばし時を忘れた。僕はカメラを愛しているが、機械全般には無頓着で、へえ〜、このカメラにこんな機能があったのかあ、となること多く、逆に知識豊富なやっくんにいろいろ教わって、深く何度も頷くのであった。同業でなければ分かりづらい話でもあるのだが、それができる仲間がいるのは楽しい。今、仲間という言葉が自然に口に出てきたが、やっくんは仲間と呼ぶのが一番しっくりくる。頻繁に連絡を交わしたり、会ったりすることもないが、仲間としか呼べない人なのだ。そんな彼がちょうど仕事前後だったので、携えていたカメラバッグの中身を見せてもらった。僕からしたら、おもちゃ箱を覗くようなもので、予想どおり、彼のシステムはシンプルだった。もはや彼の代名詞ともいえるSONYのαシリーズが、3台レンズ付きで並び、それぞれの使い分けなどをふむふむと聞きつつ、もうそれだけで楽しいのであった。人の使い込んでいる道具というのは、その人そのものだ。親しみやすく、軽やかで、どこへでもすっと入っていく高木康行さんの人柄そのものが、そのシンプルなシステムに現れていた。「バックの中、見せて」と呼びかけたあとで、「いいよー」と返してくれた言葉に微笑みがあった。MUJIなどで彼の「盆栽」写真集を見かけるにつけ、やっくんに微笑まれたような気がいつもしている。柔らかさとは、小さく強く人の心に留まるのだなと、何度も知るのだ。

                      映画「ムーンライト」

                      2017.03.22 Wednesday

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                        試写会でムーンライトを見た。素晴らしい作品である。近々公開されるので、是非見てほしい。内容はここでは伏せておかざるをえないが、これほどまで余韻が長く残るのは稀で、主人公のラストシーンでの視線が、まだ胸の奥に、透明な痛みと共に刺さっている。消したくても消えない悲しい記憶。ずっと想い続けてきた甘い切ない美しい記憶。あああ、違う、この映画の魅力はそんな風には語れない。観る前に内容を伝えるのはまずいので、歯がゆいのだが、試写の映像を前にして、僕はこの映画に描かれた拭えない痛みを何度も何度も抱きしめたくなった。それはまるで父のようにだ。傷つく者を前にして、抱きしめたくなるような気持ちになるのは、稀なことで、目を背けるではなく、つかつかと駆け寄って、大丈夫だよ、と抱きしめ励ましてあげたくなった。それは僕が年齢を重ねたせいでもあるだろうし、この類い稀な作品の力でもあるだろう。誰かを愛したことがある人全てに、この映画の透明な痛みを捧げたい。