ひとり居酒屋
2017.02.28 Tuesday
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仕事を終えて家へと帰る前に一息いれたい時もある。わざわざ友人を呼び出すほどのこともないのだが、直帰するには何か物足りない時。僕は行きつけの店がないので、適当に選んでぶらりと入るのだが、そんなに外れたことはない。相応の許容が備わってしまっているせいもあるが、目鼻が効くようになったとも言える。神保町の酔の助はそのようにして知った。聞けば有名店らしく映画のロケでも使わるのだとか。良い店には活気がある。従業員の働きが気持ち良い。酔の助はまさに絵に描いたようの居酒屋で、ひとりでも居心地が悪くない。年末に体調を崩して以来酒類を絶っていたのだが、そろりと再デビューしたので、日本酒を二杯ほど飲んで、数品つまみを頼んでから、寝床へと戻る。その小さい夜がなんとも心地よい。ほろ酔いこそ生活の華ではないかとすら思う。仲間と酔うのも楽しいのだが、ひとり酔いというのは、幸せと寂しさが入り混じる豊かさがあって、それは創作の泉だ。そこから湧き上がる言葉、イメージ、感情は、誰かと共有した時間からは浮かび上がってこない。僕は誰かに何か大きなものを感じる時、その人のひとりの時間を思う。その時間がたっぷりとある人がどうやら好きで、彼らの孤独を少し離れた場所から眺め、その影に美しさを見る。ぶらり入った店でひとり飲んでいる時に、別のひとりを見つけると、そこにもう一人の僕を見る。あんな風に背中を丸め、酒をすすり、肴に箸を向けるのかと。さて、今宵は何処でひとりになろうか。
東京の42.195
2017.02.27 Monday
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銀座に向かうと、東京マラソンのコースとなっていて、間も無くトップランナーがやって来るのだという。他に用事があったのだが、10分ほど群衆に混じって待つことにした。晴天なのは良いが、走るには気温が高すぎるなあと、他人事をきめてスマホを片手に待っていると、先頭を行く黒人が目の前の給水ポイントには目もくれずに、走り去っていった。まさに飛ぶように。トップレベルのマラソンランナーの走りというのは、想像以上に早い。よくこんなペースで42.195を駆け抜けるものだと、驚嘆する。人類は結構な能力を持っているのだと、人類の外野から眺めてはため息をつく。そしてふと、僕はいったい何を、そして何処を駆け抜けてきたのだろう?と青臭い思いを抱くのだった。息を切らし、額に汗をにじませ、能力の限界を覗くようなことをしてこなかったのではないか。目の前を飛ぶように駆け抜けていった先ほどの黒人ランナーの美しさを思うとき、僕はちょっとした恥じらいを感じ、そのことが嬉しくもあった。まあ、刺激を受けたってやつだ。では、早速ランニングシューズでも新調しようか、ということではない。二度マラソンを完走したことがあるが、僕には不向きだ。目標を定めてコツコツと走りこむように努力と意欲を重ねていく、ということでもない。ただ、躍動したいのだ。周知のように、徒歩と走るの境は、両足が一瞬宙に浮くことにある。つまり一瞬飛んでいるかどうかだ。僕はどこかに足を置いておくのではなくて、飛びたいのだ。
麻婆豆腐のピリ痺れ
2017.02.26 Sunday
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忘れ物を取りに帰った神保町。ちょうど昼時だったので九段下まで歩いて雲林へ。この辺まで出向いたらば避けては通れないお気に入りの店。カウンターのみで、大抵行列が出来ているのだが、運良くするりと入れた。担々麺は汁あり、汁なし共に抜群なのだが、やはりここは麻婆豆腐だ。白飯と別に盛られてくるのが好きなのだが、たまには、と麻婆豆腐飯を食券機で求めた。汁ありミニ担々麺付きで。僕にはかつて密かな野望があって、麻婆豆腐丼のみを出す小さな店をいつか持ってみたいと練っていた。だが、油っこい厨房のぬるりとした床に白い長くつがよもやのタイミングで滑り、シンクの角に頭を打って出血しつつ失神するというイメージがどうしても拭えずに断念した。天に召された僕の油っこい野望は、カウンターに畏まって品を待つ態度に変換され、まずまずの収まりと相成った。花椒がたっぷりと効いた四川の麻婆豆腐がこんなに容易く食べれるのは、ありがたい。赤々としたそれは、食べ進めるほどに五臓六腑を発火させ、額に汗をにじませて、前のめりとなる。四川といえば、蜀であり、劉備玄徳、諸葛亮などとつぶやきながら、三国志の大地を騎馬で駆け抜けて、あいやー、完食となった。全土統一したような達成感。ふうふう、はあはな、と口から息を吐きながら、店外に出ると、そこは九段下。大君ならず、時代の雑兵となって、半蔵門線へと地下へと顔赤く吸い込まれていくのであった。
下北沢
2017.02.25 Saturday
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連載を持つフードカルチャー誌RiCEの編集部があることなどで、最近立ち寄ることが多い下北沢。昨日も小説家の田中慎弥さんの撮影でぶらりと訪れた。南口から北口へと抜ける工事中の道を歩いたのだが、風の冷たい日に透明な光が強い冬らしい光景に魅了された。美しいとは、なんと美しいのだろう、などとは呟かないのだが、まあボロの出た街にあって、下北沢の傷を見たような軽い興奮を覚えながら歩いた。僕は中央線文化圏には縁がなかった。敬遠していた訳でもないが、まあ縁がなかったのだ。高円寺や吉祥寺に住んでいたら、ちょっとは違った人生になっただろうが。そして下北沢なのだが、ここにもさほどの縁がなかった。とはいえ、しばらく住んだ神泉からわざわざ夜中にバイクを飛ばして王将に行ったりしていたから、胃袋は少々助けられた。古着も買ったし、レコードもそうだ。デートもしたのだろう。夢も育んだかもしれない。だが、今、改めて開発の進む場所に立って廃業となったような店を見ても、さほど感慨もないのだがから、やはりこの土地にも縁が薄かったか。そしてこれからもぶらりと立ち寄って、冬ならば襟を立て、夏ならば暑いわいなどと呟くだけのだろう。だが、下北沢よ、君の名前は好きだな。掬えば飲めそうな清流が足ものに流れているよね。文化や流行を素通りしてる沢の音が聞こえている。耳を澄ます。
chisakiの帽子
2017.02.24 Friday
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坊主頭になって、帽子は欠かせないものになった。夏は日差しが痛いし、冬はすうすうと寒い。キャップも好きなのだが、最近はハット型を被ることが多い。移動の多い僕にとって折りたためるchisakiのハットは重宝している。都合4つ持っているのだが、春夏用二つ、秋冬用二つのうち、一つを除いては折りたたみ可能で、スーツケースやバッグに無造作に入れても大丈夫なので助かっている。力が抜けているのにどこか凛とした品のあるスタイルが素敵で、被るとお洒落になったような気にさせてくれる。ちょっとした魔法のある帽子だ。今回の移動には、フェルト製の後方を折り返してあるものを友とした。少しだけ頭が高くなるのだが、不思議と顔が小さく見える。被るとヨーロッパの外れにある村の帽子のような、アジアの山岳民族のような、それでいて都会的な、境界を曖昧にしてしまう出で立ちとなる。そんなところが気に入っている。被ると、僕は今日も自由なのだ、と呟かせてくれるような、何かがある。著名人にもファンが多いのは、この被れば何かを与えられるような妙な力にあるのだと思う。海外の顧客も増えていると聞く。いつか外国の偶然居合わせた街の店で、いい帽子だなと手に取った時、ラベルにchisakiの文字を見つけるのだろうか。再会のような初対面を楽しみにしている。 http://www.chisaki.co.jp
伊豆山神社の御守り
2017.02.23 Thursday
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数年前まで朱印帳を持参して神社仏閣を巡っていたが途中で飽き、御御影集めに切り替えたがそれにも飽き、今は何も買いはしていない。お守りも以前は何も考えずにひとつふたつ求めていたが、どれも一緒のように思えてからは買わない。ただ時には買う。その時の基準が、不敬ながらもデザインだ。熱海の伊豆山神社のお守りには一目惚れした。赤龍白龍が和合している姿の横に、「強運」の文字。もともとお守りにご利益を期待していないので、身につけて置きたいかどうかの基準は、デザインのみと言っていい。ほぼシルエットとなった二匹の龍の簡素ながらも力強い動きも良いし、唐突な感じがある強運も躊躇なく置かれていて惹かれる。完成度が高いのかといえば、そうでもないのだが、なんとなく良いと思えるものが僕は好きなのだ。よくデザインがうるさい、という言い方を聞くが、静かでもうるさくても、どちらでも良い。ただなんとなく気に入るかどうかが大切なのだ。で、そのお守りを800円出して求めた。お守りも好きなのだが、それを入れる白い袋も好きだ。茶ではだめで、白がよろしい。なんとなくね。そういえば、以前こちらに参拝した時にも同じ御守りを求めたことを思い出した。なんとなく、ってのは続くのだな。
町田康さん
2017.02.22 Wednesday
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去年の夏以来、久しぶりに町田康さんを熱海に訪ねた。いつもの待ち合わせ場所の来宮駅に約束より少し早く現れた康さん。「おはようございます」とぼそりと言って、いつの間にか目の前にいた。康さんの運転する車に乗って、夏に訪れた場所をいくつか巡りながら、撮影をした。男が二人だけで、平日の昼間からぶらぶらしている姿は、観光や地元に人にとって、ちょとした違和感があったかもしれない。小さな漁港で大の字になったり、食堂のすみで刺身をつついたり、神社の裏山の木に登ったりと、時間にしては多くの場面を淡々と二人でこなしていった。僕が用意したイギリスのハットや、サンフランシスコのサングラスが良く似合い、その佇まいは詩人でありロックの人であり、もちろん小説家であった。最後には、康さんの仕事部屋での撮影となり、原稿を書いている姿、猫との関係、ギターを爪弾く姿などをおさえ、簡単なものではあるが動画も撮らせていただいた。康さんは「長崎は今日も雨だった」を口ずさみ、そのさりげない奥深さに、じんとした。最後は前回のように熱海駅へ送っていただき終了となったのだが、まだ日の残る駅前から消えていく康さんは、何かを残し何かを揉み消すような風でもあった。そもそも撮影のきっかけは、町田康を写真にたっぷりと残しておきたい、という思いつきだったのだが、そこには僕のそれがいつもそうである以上に、結構な重みがあって、しなければいけないことだったのだと思う。動画を交えてさらに厚みを増やして、近いうちに写真集にまとめたい。出版元はこれから探すのだが、きっとどこかが手を上げてくれるのではないかと楽観している。熱い海にて、頭と腰を低くして、お待ちしています。
the north faceのバッグ
2017.02.21 Tuesday
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小田原駅のホームで愛用のバックパックをしばし眺める。色がいいなあと思う。確か去年の冬の入り口に買ったような。重い色になりがちな服装にあって、気分くらいは軽くしてくれるだろうと選んだに違いない。そしてPCがさっと取り出せる別口が使ってみるとやはり便利だった。空港の荷物検査でもささっと出てきてくれるのはかなりありがたい。ウエストベルトなども無く、作りはいたってミニマム。ノスタルジック過ぎる物を好まないので、さりげない細部に見えるエッジの効き方も地味に良い。都市での移動に求める要素が、必要最低限でまとまった逸品だと気に入っている。値段もそんなにしなかったはずだ。アウトドアブランド製品は機能的に出来ている反面、デザイン過多なものを多く、実際使わないベルトやポケットが備わっている。そういう中にあって、この簡素さはありそうでない。しばらくは使い込むことになりそうだ。いずれくたびれてしまうだろうから、予備に新品の色違いでも買っておこうかとも思うが、時がたてば好みは変わるので、ここは使い倒すとしよう。思えば、何よりも誰よりも共に居るのがこのバックだな、と思いつつ、しげしげと眺めれば、小田原の午前の光は過不足無く美しく、さあ行きましょう、とバッグが声をかけてくるのであった。君を背負うのは僕なんだけどね。
津・中津軒講座
2017.02.20 Monday
撮影 松原豊さん
ここ数年トークイベントをすることが多い。月に数度と重なることもあり、ちょっと不思議な気持ちになる。もともと話すことは得意ではないのに、いったいどういうことか。なにごとも経験とはいえ、大勢の前で自分のことを話すことにいつも違和感を覚えながら壇上にいる。今回は三重県のひらのきかく舎さんによる中津軒講座にてお世話になった。テーマはヌードと聖で、去年出した2冊の写真集「sketches of tokyo」「あおあお」をもとに90分ほど語らせていただいた。事前に話すことを準備しなかったのは、いつものことで、その場に集まった人々の全体の雰囲気などに混じりながら、その場かぎりの言葉を喋ってみたい、という思いがあるからだ。もともと話すことは得意ではない自分にとって、それには曲芸の難しさもあるけれど、ふらふらしながらも、集った人々と交わせる何かの質は高いのではないかと踏んでいる。いや質が高いとは思い込みすぎだろう。ただ、生々しさを自分自身が感じていたいのだと思う。そして言葉が出てくること、言葉が詰まること、それら一切を見ていただきたいのだと思う。それが何になるのかは知らないが、僕にはそれがとても誠実なことのようにも思えるのだ。中津軒講座に集った方々は、押し並べて温かく、アウェイ好きの自分にもホームを錯覚させてくれた。三重という土地に感じる親しみはいったい何処からやって来たのだろう。これからも再訪を繰り返したい土地だ。そしてその時にいったいどんな言葉を思いつくのか。僕にとっての見ものである。
三重の朔にて
2017.02.19 Sunday
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三重県の津に行く楽しみがまた一つ増えてしまった。友人の運転するSAABに揺られて村落から山道を入っていくと、長閑ながら厳しさを映す冬の森の入り口に、そのレストランは現れた。朔と書かれた看板の奥に小さな建物がぽつんとあって、その佇まいだけでそこが素晴らしい店であることを示していた。自然に胸が高鳴る。6人限定、11:30と13:15からの二回のみの昼営業の店。夜に営業しないのは、そこまでの道のりが細く、夜には暗すぎて、客の帰路が危ういとの判断から。この店のロケーションを説明するに足る配慮だ。料理はコースのみ。主人の作る端正は品々はあえて触れないでおこう。選りすぐりの地産地消産物、鹿や猪、冬季潅水不耕起栽培米、命をいただく、厳冬期は休業して大工仕事などに励む、などの言葉を置いてみるほどにとどめたい。山の斜面を眺めながらカウンター席でいただく料理は、出会いについて考えたくなるほどの豊かさだった。食べ物とは美しく、その美しさを体内の入れ、消化し、血肉にする喜びを感じる二時間なのだった。ため息をついて窓の外を眺めていると、ちょうど猿が斜面を降りてきた。主人はやれやれといった風で、畑の野菜を気遣った。鹿も多く出るという。訪れる人にとってはちょっとした楽しみでもあるのだが、住民にとっては厄介な動物たち。鹿は夏場の牡にのみ脂が乗るという。その貴重な素材を使った紅葉鍋をいただく。目を閉じる。小さなため息。束の間の訪問者にも、山の循環に入ったかのような錯覚を与えるその料理は、僕の心の血肉にもなって、味を忘れてしまった後でも、詩や写真などに形を変えて誰かに伝わるのだろう。