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2018.08.20 Monday

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    悲しいということ

    2017.05.15 Monday

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    人は誰でも悲しくなる時がある。傷ついた時、大切なものを失った時、怒られた時、そういった分かりやすい原因もあるのだが、なぜか嬉しくて悲しかったり、悲しさが去るのが悲しかったり、そして訳もなく悲しい時もある。いったい悲しみは何処からやって来て、どこへと消えていくのだろう。自分の心の奥からか、それとも悲しみの池がどこかにあって、そこから水蒸気となり、涙腺へとやってくるのだろうか。それとも、悲しみという透明人間がいて、不意に目の前に現れて、今は悲しくしたまえと指示するのだろうか。僕たちは、悲しみがいつかは無くなってしまうことを既に知っている。朝を迎えてしまった重い悲しみも、夕方には少し質量を減らし、数日、数週間、数ヶ月、数年後には、空気や土に還ってしまったかのように、綺麗に消えてしまうものだ。水が上から下へと流れるぐらいの当たり前だと誰もが知っている。時が解決すると誰もが言う。そしてそれは正しいのだが、やはり思わざるを得ない。悲しみはどこからやって来てどこへと去っていくのだろう。仕事や勉強を熱心しこなし、多くの他人と会話をし、趣味に熱中し、起床就寝を繰り返し、そしていつの間にか静かに去っていく悲しみは、なぜやって来なくてはいけないのだろう。窓から部屋に差す光は、やがて角度を変えて去っていく。常に何かが変わっていくのだと、教えるようにして。変わるというのは、何かを得て何かを失うことでもある。喜びと悲しみを差し替えて、僕たちは日々を巡行する。そこにはシャツのボタンのように悲しみがあって、今の変化を自覚させるために涙を誘うのだろうか。嬉しくて悲しい時も、訳もなく悲しい時も、そして失って悲しい時も。さあ、朝が来たのだ。外へと出ざるを得ないが、きっと今日は青空が悲しいだろう。

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