ヌードを撮ること

2017.05.30 Tuesday

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    これまで多くの方のヌード撮影をしてきたが、最初のひとりというのは今でもよく覚えている。多くの同業者が自分の恋人を最初の被写体とするように、僕も当時付き合っていた人にお願いした。今でもそのネガは大切に保管してあるが、改めて見返すと、技術的な拙さは否めないものの、こみあげるような感情を忍ばせつつ、彼女と向き合い、繰り返しシャッターを切ったあの時の空気が写し出されていて、なんともいえない感動があった。それ以降、付き合ってもいない女性のヌードをたくさん撮ることになるのだが、裸になった女性の美しさというのは、なぜだか歴然とあって、それには多くを語れないのだが、結局は綺麗だから引き寄せられていくのだろう。それに尽きると思う。僕は、疑似恋愛という言葉で語られることにどうしようもない違和感を持つので、それは擬似でも、本物でもいいが、恋愛ではないとはっきり言いたい。無論僕にとってはだ。あの空気はそういう言葉の網に引っかかるものではないし、もっと自由で美しい。そして少し汚れている。モデルは好きでもない人の前で裸になり、写真家は好きでもない人の裸を撮る。撮影中に昂まる感情を恋という言葉に置き換えるのは安易だ。二人の間で起こることは、自由で美しい。そしてやはり何かちょっとだけ汚れているのだ。ヌードを撮るというのは、その汚れを二人で分け合うことに近いかもしれない。現在一般公募でヌードモデルを募りながら進めている次作は、前作である「sketches of tokyo」から離れたものになりそうだ。前作の乾いた悲しみから進んで、別の何かへと向かっている。行く先は、裸だけが知っている。

    青空

    2017.05.29 Monday

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      今日の東京は、いい天気だ。日々いろいろあるが、外に何かを求めたい時、僕たちに平等に与えられているプレゼントに、青空がある。どんな天才でもこれほど壮大で美しい青は生み出せない。気晴らしとして、お金や時間を惜しみなく使うのも良いだろうけど、心地のいいベンチに座って、青空を眺めて見る。胸の内に広がる果てない青。目を閉じても消えない青。僕たちは青になれる自由があって、そのプレゼントに気づきさえすれば、本当の自分と会うことができる。眉間のシワと肩の強張りから離れて、しばし青になる。

      ブロッコリー落下

      2017.05.27 Saturday

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        ブロッコリーが落ちていた。ロケハンで歩いていた東中野の路上にて。同行者たちも、ああーだの、あれえだの声こそあげるが誰も拾わない。美味そうないいブロッコリーだ、とまで言う者も結局は拾わない。かく言う僕も通り過ぎた。ラッキー!と思うには、中途半端な落し物で、これが食べ物ではなければ、異なる反応になった。そもそも落し物とは不吉である。持ち主の息吹がかかった何かしらの物は、気配が残っている。売買という貨幣によるエネルギー交換によって、瞬時に買い手の一部になった物には、まあ念がこもっていて、件のブロッコリーにさえもそれはあった。では、念や想いが不吉なのかといえば、そうではない。捨てられた、主人から千切られた物が、行き場を失うと、元に戻ろうと欲する無念さが、悲しみを持って不吉に映るのだ。だがそれらの物体が無念を露出しているのでもない。物体はゼロである。それを見る者の心中の無念が、捨てられた者の形を借りて表出したという事だ。僕たちは全て羊水から出されてしまった者たちである。その時の無念が、時々疼くのだ。

        モンブランのデッサンペン

        2017.05.26 Friday

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          荷物を整理していたら、ずんぐりむっくりの可愛いいペンが出てきた。手の中に収まるサイズで、もしかしたら廃盤品かもしれない。何処で買ったか覚えていないのだが、空港の免税店だろう。もう10年以上も前のことだと思う。要は極太の芯が収まっているシャーペンである。そのぽってりとした肉厚な造りに一目惚れして求めたに違いないのだが、内心これから絵を始めようではないか、という小さい希望があったと想像つく。道具好きな性分が盛りだった頃で、何事につけ、逸品を探すのが好きだった。そういう品を並べて何をしたかったのかは分からないが、悦に入っては物欲を満たしていたのだろう。すでにそういう季節は過ぎ去ってしまったが、必ずしも以降すっきりしているわけでもなく、それはそれで少し寂しくもある。お気に入りの品は、弾みをつけさせてくれるし、つまりは溺れなければいいだけのことだ。このモンブランのデッサンペンを手にいれた頃は、スケッチブックもおそらく上等なものを揃えたに違いなく、振り返れば微笑ましい。で、結局デッサンも進まずに、放り出されて、ペンだけが記憶の地中深くに置き去りにされたわけだ。今、こうして手にしてみると、やはり良いものは想像を掻き立ててくれる。さっそく新しいスケッチブックを買おうかなという気になっているのだから。で、何を書こうかといえば、花なんぞよろしいかもしれない。野に出て、麦わら帽の下で、せっせとデッサンなり、スケッチに勤しむ初夏も悪かろうはずがない。うん、いいかも、いいかも。もともと写生画が好きだし、新たな手習いもいい。ポケットにこいつを忍ばせて、ゆったりと野山を歩こうではないか。ああ、これは十年前と同じ気分なのだろう。繰り返しは楽し。


          日暮れ時

          2017.05.24 Wednesday

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            出張先や旅先で迎える日暮れ時の不安が好きだ。暮らしというのは、どうしたって平凡な安らぎへと向かいがちで、どんなに退屈でも、それが生きるということなのだから、それは構わない。繰り返しというのは実際そんなに悪いものではないし、僕も忙しない日々の合間の安らぎにほっともする。だが、あの不安の美しさは、いったい何なのだろう。それは、合わせ鏡を使ってしか見えない自分の後ろ姿なのだろうか?不安には郷愁も混じる。見知らぬ商店街の角を曲がり、誰かの長い影を踏み、遠い人を思い、どうということのない店で食事をする。その一連が不安で、そしてやたらと綺麗なのだ。一方自宅から眺める日暮れはどうだろう。実はこちらも不安が濃い。充足したような時もあるが、心はざわざわと波立つ。きっと日暮れが本当なのだろう。いや、日暮れだけでなく、白昼も本当で生存の本能が持ち合わせてしまった不安はそれとして、時々涙ぐむなどして楽しむがいいのだろう。今日も日暮れがやって来る。あちこちに。br />

            外人住宅に暮らす

            2017.05.23 Tuesday

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              沖縄では、高台にある外人住宅に住んでいる。(写真のような物件ですが、これではないです)コンクリート製の素朴な作りで、来沖して以来、三度転居したうちの二度は、外人住宅である。もともとペットが多く、それなりの広さを探していたのが、外人住宅に辿りついたきっかけで、まあまあ気に入って、ずっと外人住宅で暮らしている。難をあげれば、いくつかあるが、何よりも立地が気に入っていて、高台からの眺めは代え難い。沖縄といえば、リゾートをイメージする方は多いと思うが、住んでみるとそういう感じはほぼしない。もともと国が違うので、異文化を感じることもたまにあるが、日本の一地方都市に住んでいるというぐらいの感じしかしない。とはいえ、僕が暮らす本島中部はアメリカからの住人も多く、息子の近所の友達は、半数は外国人である。リゾートに住んでいるというよりも、半外国にいるような感じの方がリアルだ。今年は、出張が多く、実際沖縄で過ごす時間は、月に一週間ほど。もはや住んでいるというよりも、滞在しているといった感じだが、やはりここに戻ってくると、湿度と温度と香りに、ほっとする。外人住宅の無国籍な造りもあって、僕の根無し草的な性分ですら、休ませてくれる。ここで過ごしている間に、さあ次は何をしようか、何処へ行こうかという、若い気持ちになるのだ。住む場所から背中を押してもらえるというのは、幸運なことかもしれない。呼吸は深く、心は軽く。僕を縛るものなど何もない、とここから空を見上げるたびに、そう思う。

              SIGMAの広報誌SEIN

              2017.05.21 Sunday

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                カメラ業界でもその独自性で名を馳せるSIGMAさんの広報誌SEINの表紙巻頭を担当させていただいた。もともとコンパクトカメラであるDP2メレルを愛用していたのだが、ちょっとした偶然が重なって、同社のカメラを使わせていただく機会を得てからずっと手元にある。フォビオンという名のセンサーは他社にはない表現性を持っていて、それが欲しい時には代えのきかないカメラとして重宝している。山河草木を撮る時の描写は特にお気に入りなのだが、人物撮影に今回使ってみて、その適正も確認できた。本来SEINはSIGMAさんの会員向けの冊子なのだが、写真量販店の店頭などにも置いてあるので、ぜひ手にとっていただきたい。できあがったSEIN12号を手にしながら、そこに写っているものを改めて見つめていると、写真の時間を止めてしまう力を、今更ながら不思議だなあと思う。そこに写っているのは過去の時間であって、もう二度と帰ってこない。草と森と人物。とてもとてもさり気ない撮影の結果として残っているのは、しっかりとした存在感であり、対象自体が、撮影者や被写体自体からも忘れられてしまう記憶に、ささやかな抵抗を試みているかのようだ。僕たちは、覚えていることよりも忘れてしまうことの方が多い。きっとそれでいいのだろうけど、この事実は時に、ただ、ただ、切ない。切られた髪もやがて伸び、元の長さを取り戻す。枝はやがて新しい蕾を宿す。その変化や回帰の果てにある幸福を願ってやまない。

                初夏に新宿御苑

                2017.05.20 Saturday

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                  二日酔い気味の頭と共に地下鉄に乗って新宿御苑にやって来た。見頃の薔薇目当てだ。午前だというのにすでに沢山の人が訪れている。夏日の日差しも休日に開放感を与えているようで、目を細める人々の声は明るい。御苑は十代の頃から通っている場所で、大抵は一人でぶらりとやって来る。記憶の中では冬の場所であり、人気のない曇天の下で、白い息と共にある。冬の公園の静寂が好きで、ここで僕は多くを感じ考えてきた。あれから沢山の冬が過ぎて行き、いつの間にか夏になっていることにも繰り返し気づいて来た。これはこれからも繰り返されていくのだろう。冬の公園も夏の公園でも、僕はそれぞれの季節を一人で確認するのだろう。家族連れや、恋人たちが、思い思いに薔薇を楽しんでいる。気温はさらに上がるだろう。夕方には涼しい風が吹くだろう。二日酔いはもうすぐ引くだろう。

                  kapitalの帽子

                  2017.05.19 Friday

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                    せっかく岡山まで来たのだからと、KAPITALの本店へと出向いた。昔の図書館を改装したという店内の雰囲気も素敵で、予定よりも長居となってしまった。夏に向かう暑さを感じる日であったから、ちょうど被っていたコットンの帽子が重く感じられ、リネン素材のものはないだろうか、と目を移らせていると、そこにちゃんとあった。紫、青、緑、生成りを代わる代わる被ってみては、店員さんに意見を聞くと、この色がお似合いだというので、それに従った。よく分からない時は、見知らぬ人、会ったばかりの人に、決めてもらうのもいい。なまじっか自分を知っている人だと、予めのイメージで判断しがちだし、時としてそれは面白みに欠ける。13枚集めるとパジャマをもらえるという各店のオリジナル名刺を手にして、ご機嫌な足取りで店を後にした。すでに日は落ちて暗くなっていた。新しい帽子というのは、気分が良いものだ。リネンというのも好きな素材だし、キャプとこれを日によって選んで、旅する日々に添えていく。KAPITALは、好きな洋服メイカーの一つであったが、10年くらいはご無沙汰だった。手の込んだ仕様の服や小物の数々は、ぺろりんとした感じで過ごしていたここ最近の自分には少し過剰だったから縁が遠のいていたが、やはり楽しい製品であることを再確認しては、恵比寿に行くのが楽しみにもなった。ちょっと前に通っていた店に、再び戻っていくような循環も、いいものだなと思う。イメージとしては回遊魚である。ぐるりと世界世間を泳いでは、知らぬ前に育った海へと向かい、また去る。そこに意味などあるものか。イギー・ポップのパッセンジャーの出だしのギターリフが、やや、ちんたらとした趣で鳴り始めた。

                    鳥取の温泉旅館

                    2017.05.17 Wednesday

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                      岡山から山を越えて鳥取へとやって来た。宿は、駅から近い温泉旅館丸茂(まるも)さんである。ご主人、若女将、ご友人らの歓待を受け、さらに日本酒瑞泉、鳥取ならではの素材を活かした料理などなど、癒される夜であった。実は日本海沿いの国々が大好きで、遠くに来たような思いと、故郷を訪ねたような思いとが交差する不思議な愉悦を味わえる場所である。なぜだかは分からないが、海が違うからかもしれない。千葉に生まれ、東京暮らし、葉山暮らし、と太平洋から吹く風を受けた年月が長かったせいもあり、日本海は少し言い過ぎるなら、別国の海である。そこに暮らす人々や、育つ穀物などは、見知らぬ土地からのものであり、そこに遠望と近景の混じった不思議な心地がするのだ。温泉旅館の楽しみの最たるものは、やはり入浴に尽きるだろう。さらりとした掛け流しの湯に夜中に一人で浸かりながら、ふううと息を長くとれば、目の前のタイル画には裸婦がある。ルソーの名画を模したものだろうか。淡く柔らかな色彩は美しく、しばし眺めてしまった。思えば、浴場の壁に裸婦が描かれているのを見た記憶はないので、生涯初の経験かもしれない。そんなことまでぼんやりと思いつつの入浴は、なかなか乙なものであった。ご主人の言葉によれば、都築響一さんも気に入っていらした風呂絵だと聞く。さもありなん。丸茂さんは100年の老舗でもあり、館内をぶらりとするのも味わい深いものであった。本日は、朝から活動である。写真を撮り、たまにぼんやりと考え、1日が過ぎていくのである。丸茂の湯を肌に残しつつ、しばしの鳥取である。