おやすみ、女子たち

2017.04.23 Sunday

0

    iphone7+
    台湾に来て初日の撮影を終えた。VWのおっきなVANのロケバスに乗って台南に向かい、PARIPARIカフェ、お寺や路地での撮影を、もくもくと楽しくこなした。途中雨にも降られたりと、天気はいまひとつだったが、親切でよく働く素敵なスタッフに恵まれて、愉快な1日だった。10月に高雄で開催される個展のための撮りおろしなのだが、今から楽しみだ。スタッフの中で唯一の日本人である僕はアウェイ派なので、言葉が通じないことが快適でもある。通じないを前提としてみると、いろいろ控えめになっていいこともある。人間関係の悩みの多くが、どうして通じないのか?なので、初めから控えめになっていると、逆にスムーズだったりする。こんなことまで分かってくれるのかと優しい気持ちにもなる。そんな風に1日を台南で過ごした帰途、ロケバスの後方から深い呼吸音が響くので振り返ると、こんな感じであった。二十代がほとんどの女子たちは、とてもよく働いてくれた。その寝顔たちをパチリ。おやすみ、女子たち。きっととっても疲れているのだろう。夢など見ていないはずだ。VWのバスは宿泊地である高雄を目指す。僕はデータをバックアップしたりラフセレクトをしたりと案外手元が忙しい。アシスタントもつけずに身ひとつでどこへでも行き、撮影し、トークイベントをし、瞑想ワークショップをしたりというのが最近のスタイルだが、ここ台湾でも同じように過ごしている。ここで映画を撮ろうかなと思いつく。脚本になるような構想が次から次へと浮かび始めている。さてさて、どうなる。

    朝風呂

    2017.04.22 Saturday

    0

      iphone7+

      ホテル滞在では、朝風呂に入る。起床してからの導線上に、いつからかこの朝風呂がセットされ、以後動かない。心地よさからだが、家ではあまりやらない。仮の住まいでの小さな習慣。幸運にもここ台湾高雄では、眺めの良い風呂がある。たっぷりとした円形の浴槽にゆったりとつかり、我をも忘れてぼんやりと過ごす。空がこの世界の本来の姿を表すかのように、広い。地上11階の高さで湯を楽しむなんてネアンデルタール人にはできなかったのだろうな、などということを考えたりする。僕には恵まれた環境にいるなと感じた時に、原始時代にはどうだったろう、と遠くに比較する癖がある。ただの癖だが、それはたかが階段を上っているときにさえよぎることで、文明批判ということではなくて、僕の中にある原始時代の心がむくむくと勝手に起き上がっているだけのこと。階段なんてあの時代にはなかったよな、と五年前の駅前を思うような近さで、回想しているのである。朝風呂につかりながら、広い空を見る、遠くて近い過去の時代を省みる。そうこうしているうちに、角がとれるのだ。朝は身体がかたい。心が止まっている。それを自宅ではない仮の宿で伸ばしている。タオルをあて、髭をそり、新しいシャツを着る。1日が始まる。浴槽からの排水音。

      THRASHER MAGAZINEのキャップ

      2017.04.21 Friday

      0

        iphone7+

        分相応なら心得ているつもりだが、年相応はかなりの不対応で生きている。すでに暑いであろう台湾へ行くのに、メッシュキャップを買おうと決めて原宿を歩いていた。ちょうど仕事終わりの編集者2名がいたので一緒であった。ムラサキスポーツへぶらりと入るが、案外メッシュは少ない。どうしたものかと思っていると、赤いキャップが目に止まった。そんなに派手な発色ではない。だが文字が派手であった。少なくとも僕にはそう見えた。THRASHERと燃えるその字が気に入ってしまったのだが、さすがにスケイター雑誌のタイトルは若すぎないかと思った。ラリークラークだと思えばいいのだろうか。鏡に映った自分は悪くない。念のため、同行の二人に聞くと、似合っていると返事をくれた。ならば、これをとレジに進み、購入。晴れて、僕はスケイター雑誌の傘下者となった。ブランドのロゴ入りを敬遠していたのは、いつの日からだろう。それ以前は積極的に好きなブランドの名の入った服だのバッグだとの身にしていたのに、いつからか馬鹿馬鹿しくなった。だがその風も今や通り過ぎた。一言で済ますなら、どうでもよくなっている。僕はこの赤いキャプを被って、今日から高雄へと飛び、台南を可愛い台湾人のモデルと歩くことになるのだ。僕の頭は常に燃えることになるだろう。炎の中で、僕が何を撮って帰ってくるのか、楽しみである。

        草間彌生展

        2017.04.20 Thursday

        0

          iphone7+

          10時半頃に新国立美術館に到着したが、すでに長蛇の列。オンラインチケットをスマホで購入し、するりと館内に入ったはいいが、そこにも大勢の人々。美術館博物館などでの混雑時によく使う逆行見物法を使うことになった。まずは無数の人頭の向こうに見える作品群を横目に再奥部までだだだと行く。そこから踵を返して入り口へと逆行するという、、もしそれが我が人生なら嫌なだなというやり方。僕は人間の背中を眺めてじっと待つのが苦手なので、まず展覧のあらましを掴んでから、興味深い展示を見るための体力集中力配分の予測をたてる。この浅い知恵は、なんとも侘しい態度のような気もするが、構わない。空いている時もこんな風だから、きっと角に身を置く監視人の方々には、遡上する鮭のように映っているかもしれない。さて、草間彌生さん。多くの大賛辞が送られているように、僕もそこに手のひらが腫れるような拍手を加えさせていただく。ブラボーだと思う。質、量、ともに偉大であることは間違いない。その芸術家としての大きさとは別に、彼女の作品というのは、ささやかなものだと僕には思えた。彼女の心の、魂の奥にそっとささやかにあるものが、色彩や形の驚きと共に私たちの目の前に現れている、そんな風に僕は感じた。彼女が子供の頃から見てきた奥の奥にある小さくて重たいものが、彼女の体を使って外出してきた。僕はそれに出会い、驚き、揺さぶられ、そして愛しく思う。とてもとても可愛いなあと。芸術を通して世界に貢献したい。彌生さんは展覧会に寄せたメッセージでそんなことを記していた。成長して大人になった僕たちが生まれる前から持っていた純真を、彼女の純真な作品が目の前に連れ出してくれる。驚きと喜びと大音量と静寂と、そして、こうとしか言えないと思うのだが、愛を。最後の展示室から去る時に、ぐるりと振り返って彼女の作品群に思わず手を合わせて一礼してしまった。神社でするかのように。ありがとう、彌生さん。

          闇の部屋温泉

          2017.04.19 Wednesday

          0

            iphone7+

            朝の六時から温泉に入る。モダンな設えを通り抜け、打たせ湯、大浴槽を楽しんでいると、何やら奥へと続く穴があった。排水溝にしては大きすぎるので、何であろうと吸い込まれていくと、奥の奥に、胸元まで湯で満たされた暗闇の部屋があった。四畳半ほどの広さであろうか。目が慣れないうちに手探りで進み、再奥に居座ると、鐘の音がゆったりとした間をとって響いている。あいにくその音は空調音と排水音とにかき消され気味なのだが、確かに鳴る鐘の音に、その暗闇の湯が瞑想場と化すのであった。メディテーションバスと名付けられたその温泉施設の真骨頂はここにあり、なのである。入浴中の瞑想を僕は避けているので、そこではただゆるゆると過ごした。よくぞこういう数寄な遊びを作ったものだ、と感心しながら、早朝の温泉浴を楽しんだ。客は我ひとりである。鼻歌でも奏でようかと思いつつも、場所は暗闇である。鐘も鳴っている。鼻歌はいつしか読経のように聞こえるだろう。暗闇からそんなのが聞こえたら、二番の客に戦慄を与えかねない。そんな気遣いもあって朝の鼻歌は控えた。しかししかし、早朝のひとり湯の気持ちよさよ。芭蕉や蕪村ならどう歌うのか。我ひとり闇とたわむる。そんなふざけたことばかりを思いつきながら、せっかくメディテーションバスの時間は通俗的に過ぎ行くのであった。設計者に申し訳ない。だが、我はこの闇の部屋をとても気に入った。願わくば再訪したい。その時は深夜に訪れてみたい。夜の闇の穴で、湯の声を聞いてみようと思うのである。ちなみに写真は闇の入り口である。

            朝の瞑想

            2017.04.18 Tuesday

            0

              iPhone7+

              軽井沢の星のやさんにての滞在。仕事で訪れているので、ゆっくりとしてもいられないが、いつものように早起きをしてゆったりと瞑想をした。まだ桜が咲いていない軽井沢。朝はひんやりとしているが、朝温泉のあとで外気の中で少しの間、座ってみた。火照りの残る心身には都合がよく、静かに冷めていく方向と、内側からの目覚めが、すれ違い、静かな深い呼吸と合わさって、まろやかな時間となった。朝と夜の瞑想を習慣にしているが、それぞれに色合いが異なり、朝は世界へと離陸していく心地よさが、夜は、1日を丁寧に閉じる心地よさがある。中でも外気の中での瞑想はありがたく、夏に近づけば蚊に悩まされ、冬に近づけば寒さに縮むので、本当に心地よく座れる季節は案外短い。蝶が待ち望む春のように、僕は春と夏の間の一時に座ることが、一年の中でも、楽しみのひとつだ。座っているのはものの10分ほど。長くても20分もあれば事になる。瞑想とは、余白を作ること。空だの無だのと高い言葉で語られることもあるが、僕にとっての瞑想は、空白を作ること、それに尽きる。間をとること、と言ってもいい。そこには何も置かず、ただの空き地としておく。それが時に暮らしの緩衝材にもなるだろうし、何かを持ち上げる時のバネになる時もある。心の個室として、安心をもたらせてくれる時もある。朝と夜に、空白を持つというのは、名前のない時間を持つこと。広い部屋を広く使うには、空間を埋めないようにするのが良いが、心もそういうことなのだ。朝食も済ませた。さて、今日もゆるゆると流れ暮らそう。

              浅間山に日は沈む

              2017.04.17 Monday

              0

                iphone7+

                写真集の撮影で軽井沢に来ている。季節が少しだけ遅く、桜はまだ咲いていない。今年二度目の春の始まりである。この朝に被写体の方が東京から新幹線に乗ってやってくる。昨日はロケハンに暮れた。中軽井沢、旧軽井沢を中心に見て回り、日没頃に星のや軽井沢の裏手の山から日没を眺めるタイミングとなった。浅間山はいい。日本でも好きな山の五指に入る。大らかでゆったりとした構えは、活火山であることをしばし忘れさせる。懐深くに熱いマグマを抱いているとは思えない落ち着きがある。次の予定が控えていたので、存分に夕日見物とはならなかったが、良いものは瞬時に染みるものだから、惜しくはなかった。太陽の力、大地の力、大きな二つの力を染み込ませたあとで、ハルニレテラスにある川上庵本店での蕎麦と相成った。ドライバーの方に信州と播州のつながりなどを話していただきながら、母方の祖母が信州の血筋であることを思い出していた。僕がまだ関東に暮らしていた頃の夏には、蓼科に滞在していたものだから、信州とはそれなりの縁もある。暮らしを放っておけば、地縁というのは繋がったり、見つけられたりするものだ。それは常に移動するような職を持たなくても、人は人を通して、それぞれの土地と繋がる。ならば、それは星々との関係にまで感覚を広げられもできまいか。太陽の光を見ることで、僕は太陽と地縁を結び、金星を見ることで、木星を見ることで、それらを腹の内にしまうことができる。それを結びつきと呼ぶのは突飛すぎるろうか。浅間山は美しく、太陽は美しく、そしてそれを眺める人もきっと美しい。美しさというものは、すべての故郷だ。

                coccoさんの絵を返す

                2017.04.16 Sunday

                0

                  iphone7+

                  昨日二枚の絵をcoccoさんに返した。沖縄の画材屋さんのセール会場で中古の額縁を探していた時に、取り出した品に見覚えのある作品が入っていた。coccoさんのセカンドアルバム、クムイウタの原画であった。なぜこんなところに?そこに並ぶ額縁の全てを見ると、他にも一点彼女の作品があった。まずは自分が買って預かっておくことにした。支払った額は中古の額物の値段に見合った安価なものだった。おそらくそれらをcoccoさんの作品と知らない人が買ってしまったら、中身だけ処分されてしまったかもしれない。なんということだろう。すぐに本人に返せれば良かったのだが、ちょっとして事情があって、それから数年経てしまった。今年になってcoccoさんの担当であるレコード会社のディレクターと再会をしたのを機に、返せる運びとなり、昨日事務所の方に直接渡すことができた。よかった、よかった。聞けば、彼女自身もずっとずっと探していたのだという。ある時期には、CDジャケットや雑誌の撮影で、何度も顔を合わせた彼女だが、最近はずっとご無沙汰している。7月には武道館でライブがあるとのこと。楽屋に遊びにいくのが今から楽しみだ。さて、このミステリーにはこれ以上の話はないのだが、沖縄にはこういう幻のような出来事がよくある。それに多くの意味や解釈を与えずに、素通りすること。夜道でも昼の道を歩くようにすすすと進みたい。

                  東横線から

                  2017.04.15 Saturday

                  0

                    iphone7+

                    自由が丘に行ってから、渋谷に戻り、マークシティーでの約束へ向かった。しかし、である。ものすごい人ごみに行く手を塞がれた。週末のせいであろうか。とにかく能のにじりより歩きみたいになってしまい、なんとも歯がゆい。しかししかし、これも東京名物かと思えば、なかなか味わい深い物でもある。参加型見物とみなして楽しむことにした。周囲の人々には外国人も混じっている。天守閣から下界を見たわすように視線をぐるりとやれば、人々の表情は案外固くはない。これが都会人の日常なれば、さもありなん。諦めきってもぬけの殻の体をなすわけでもなく、こんなもんでしょ、といった余裕が感じられる。ふむふむ、自分も東京人であった頃にはこうであったような、などと記憶をたぐるが、そんな記憶はない。随分と素早い適応進化だと感心する。記憶といえば、東横線は昔は地上にあったような。そうそう、246に架かる歩道橋からホームが見えていた。夕刻、仕事を終えた人々が西陽に照らされる姿は実に哀愁があって良かった。そうか、君はもういないのか、地上の東横線駅。地下に潜伏するに至った経緯はまあ察しがつくが、潜伏されたおかげで、えらい遠回りになった。が、そんなことを今更語る人も絶えたことだろう。もう随分と前になるから。人ごみをようやく抜けると、井の頭線と書かれた看板づたいに、どうにか地上に出る。目の前にマークシティーが現れる。地下の人から地上の人になった。空気、空気、という感想を持つ。やはり地上はいいものだ。流しそうめんレールのように長いエスカレーターがベルトコンベアごとく人間という製品をマークシティーへと上昇降下させている。壮観な絵だ。その列を避けてエレベーターを使う。なぜかこちらは空いている。僕はいつの間にか抜け道を歩いていることが多い。

                    冥砂Tシャツ

                    2017.04.14 Friday

                    0


                      カメラ不明

                      FACEBOOKのメッセンジャーから届いた写真に驚いた。友人の子供が着ているTシャツに見覚えがある。これまた友人の茂山友紀子さんの手による、ちくちく刺繍ポートレイトシリーズ中の藤代冥砂なのだった。本来のそれは立体作品で、トークイベントなどで着なさいといただいたTシャツやスウェットシャツ上にプリントされた逸品はかなりレアなはずで、僕本人しか所有していないと決めかかってきたのだが、二人の子供の胸元に怪しく微笑むおじさんを確認するや、久しぶりに驚いた。そして図々しくも、案外可愛いのではないかと思った。物として。これがそこらのお姉さんが所望するとは到底思えないが、なんというかモンスター柄の一種だと思えば、僕のことを知らない人にでも、間違って着られてしまうポテンシャルがあるのではと。ビーニーと言えば聞こえはいいが、おっちゃんニット帽を被った僕は、国籍不明のアジア人として、賭場にでもいそうないかがわしさがキッチュだし、茂山嬢曰く、昔は悪い蛇だったけど、今は白蛇へと良化したという僕の、まさに悪蛇時代終盤期の思い出の肖像としても、感慨深い。しかし、これを着させる友人の親たちも親である。どちらの子も、僕が続けている産前産後写真のモデルになっていただきたお子さん。いやはや。しかし、しかし、なんだか嬉しいものでもある。せめて後日、この子らが昔のアルバムに貼ってある、いやデータに残っている写真を見つけては、ああ、これ、謎の蛇男だしー、などと思い出してもらえれば良いのである。願わくば、冥砂おじさんだー、などと固有名詞で呼んでいただけるなら、さらにいと嬉し。じつはこのTシャツ、今日のスーツケースに入れてある。どのタイミングで着てみようか。おそらく台湾かな。