夢の国で

2017.03.25 Saturday

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    ディズニーシーでは、散歩が楽しい。様々なアトラクションを横目に、細部まで整えられた人口の街並みを歩けば、南欧、ニューヨーク、アラブ諸国、謎の島、などを1時間ばかりでぐるりと出来る。実際にそれらの国々を訪れた目で見ても、良く出来ているなあ、と感心するばかりなのである。そもそも街並みというのは、人口のものだから、上手に再現できていれば、元と偽の違いはさしてないのも当たり前で、僕などのように何処にいてもパッセンジャーでしかない性分からすれば、その違いはますます怪しい。歴史、暮らし、経済活動、街の要素としてこれらが挙げられるが、ディズニーシーにはそのうちの経済活動があり、再現された歴史や暮らしもある。ちょっと気分を入り込ませれば、僕にはそこが本当の街にしか見えない。そして、もう少し考えるに、本当も偽も、実は違いがないことにも思い至る。街とは、そもそもモデルがあって、それに似せて量産されるようなものだ。中国の都をモデルにして、日本の都が建設された事実は、その一例だ。人の様々な文化には雛形とその結果があって、それが細かく繋がれて社会を作っている。地形、緯度、経度、によってそこに暮らす人の衣食住にも類似性が現れるのを、何度も目の当たりにした時に、オリジナルとコピーの差異を僕はいつも軽やかに失ってきた。僕らはどうしても類似し、連鎖する。僕はディズニーシーにある見事な火山とその麓にある街と人との一連を眺めながら、思えば遠くへ来たもんだ、などと僕は心の中で呟けるのだった。国境などないと想像してごらん、と誘われるまでもなく、僕はすでにそれらへの喪失感の先で呼吸をしている。世界中に張り巡らされた、人の知恵が産み出した幻の先で、僕は揺れる足元の不安定を信じている。

    NIKE SBのパンツ

    2017.03.24 Friday

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      言わずもがな、SBとはスケートボートの頭文字で、NIKEのアパレルラインの一つ。ロングボードを少し楽しんでいるので、シャツやパンツをいくつか持っている。デザインと耐久性のバランスがよく、撮影時の作業着と街着、そして旅にももってこいで、重宝している。スケートパークの少年たちと服がかぶるのも悪くない。大人でなければ似合わないものも好きだが、基本無頓着で、ファッションセンスなるものにも自信なく、動けて丈夫、ちょっとしたレストランにも入れる清潔感のある服が、僕の現在の生活には合っているようだ。今回買ったSBは、サイドに通気口があって、普段はジップで隠れている。プライベートでの撮影時は特にたっぷり歩くので、こういった小さな気遣いがとても有り難い。そもそもスポーツアパレルは、写真家の日常着としての機能を満たしていて、中でもSBは、街中の普段着にスケートボードの使用に耐えうる機能を付加した順序があるので、ばっちりなのだ。一度も洗っていない買いたてのSBを履いて歩いた1日は、清潔なごわごわがなんだか嬉しくて、晴天に恵まれたこともあり、晴れやかであった。新しい服はいいなあ。少しだけ自分も新品になった気がする。新品て、いい言葉だ。僕は人を新品な気持ちにさせる作品を作りたい。

      ある写真家のカメラバック拝見

      2017.03.23 Thursday

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        写真家の高木康行さんと銀座ソニービルのあるでん亭でばったり会った。カウンターの端と端に座っていたので気付かなかったが、会計をしている僕に気づいた彼から声をかけられた。ちょうど僕の写真展に寄ってくれたのだという。首からはソニーのα6500がぶら下がっていて、相変わらず軽くシャッターを切るのだった。その後場所を写真展会場に移して、写真や機材談義にしばし時を忘れた。僕はカメラを愛しているが、機械全般には無頓着で、へえ〜、このカメラにこんな機能があったのかあ、となること多く、逆に知識豊富なやっくんにいろいろ教わって、深く何度も頷くのであった。同業でなければ分かりづらい話でもあるのだが、それができる仲間がいるのは楽しい。今、仲間という言葉が自然に口に出てきたが、やっくんは仲間と呼ぶのが一番しっくりくる。頻繁に連絡を交わしたり、会ったりすることもないが、仲間としか呼べない人なのだ。そんな彼がちょうど仕事前後だったので、携えていたカメラバッグの中身を見せてもらった。僕からしたら、おもちゃ箱を覗くようなもので、予想どおり、彼のシステムはシンプルだった。もはや彼の代名詞ともいえるSONYのαシリーズが、3台レンズ付きで並び、それぞれの使い分けなどをふむふむと聞きつつ、もうそれだけで楽しいのであった。人の使い込んでいる道具というのは、その人そのものだ。親しみやすく、軽やかで、どこへでもすっと入っていく高木康行さんの人柄そのものが、そのシンプルなシステムに現れていた。「バックの中、見せて」と呼びかけたあとで、「いいよー」と返してくれた言葉に微笑みがあった。MUJIなどで彼の「盆栽」写真集を見かけるにつけ、やっくんに微笑まれたような気がいつもしている。柔らかさとは、小さく強く人の心に留まるのだなと、何度も知るのだ。

        映画「ムーンライト」

        2017.03.22 Wednesday

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          試写会でムーンライトを見た。素晴らしい作品である。近々公開されるので、是非見てほしい。内容はここでは伏せておかざるをえないが、これほどまで余韻が長く残るのは稀で、主人公のラストシーンでの視線が、まだ胸の奥に、透明な痛みと共に刺さっている。消したくても消えない悲しい記憶。ずっと想い続けてきた甘い切ない美しい記憶。あああ、違う、この映画の魅力はそんな風には語れない。観る前に内容を伝えるのはまずいので、歯がゆいのだが、試写の映像を前にして、僕はこの映画に描かれた拭えない痛みを何度も何度も抱きしめたくなった。それはまるで父のようにだ。傷つく者を前にして、抱きしめたくなるような気持ちになるのは、稀なことで、目を背けるではなく、つかつかと駆け寄って、大丈夫だよ、と抱きしめ励ましてあげたくなった。それは僕が年齢を重ねたせいでもあるだろうし、この類い稀な作品の力でもあるだろう。誰かを愛したことがある人全てに、この映画の透明な痛みを捧げたい。

          牡蠣のスパイス炒め

          2017.03.21 Tuesday

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            メニューにブナ・オイスターを見つけた。牡蠣のスパイス炒めとのこと。迷わず注文。口にする。絶句。たまたま居合わせた木場で何の前情報もなく見つけて入ったインド料理屋カマラプール。あとで調べると、孤独のグルメで扱われた名店とのこと。納得。おそらく以前は中華料理屋だったであろう20人で一杯となる店内。半紙に書かれた壁のメニュー。常に満席。流行りの店というのは、こういう感じなのだと肌と舌で知りながら、思えば流行りの店とは縁遠い日常だな、とすっぽ抜けたことなぞ脳裏によぎらせつつ、咀嚼に心を通わせた。隣の客が注文したものも、かなり旨そうだ。ラムミントカレーなるものは実に旨そうだ。自分が注文したチーズクルチャも定番らしい。ちなみにクルチャとは間に何かしらを挟んで焼いたナンのこと。半紙に別腹と示されたチョコナッツクルチャの誘いに負けたことは言うまでもあるまい。牡蠣好きには、牡蠣チャーハンも逃す手はないのだが、僕の満腹中枢が作動して進めなかった。残念無念。ここの店に関しては何も知らないのだが、ちょっと衝撃を受けて、翌日のランチにまで行ってしまった。しかも開店前に一番のりで並んで。三種のカレーとチーズクルチャのセットは、昨夜の余韻を白昼に引き出して、幸福な春の1日となった。開店前に並ぶというのはおそらく生涯初であり、たぶん二度目はないだろう。並ぶのが苦手なので。良き経験をさせていただいた。もしゆくのなら、夜は予約を忘れずに。そして、僕がブナオイスターと語らっていたら、そっとしておいてほしい。

            衣服用ブラシのある暮らし

            2017.03.20 Monday

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              生まれて初めて衣服用のブラシを買った。ドイツ製の手作業品を、found MUJIでたまたま見つけ、珍しく欲しくなってしまったのだ。職業柄、作業着としての普段着を選んでいて、ブラシを必要とするようなよそ行きの服も少ないのだが、それでもブラシを持ってレジへと直進してしまった。毛は馬のもので、ドイツ製なのだからドイツの馬なのだろうか。日本競馬史上に輝くルドルフという名馬を連想もした。もろん、彼は日本の馬なのだが。見本のブラシを触れて撫でてみると、このブラシでジャケットなどを手入れする日々が僕にもあってよかろう、と瞬時に至った。見本の脇には説明書きがあり、読むと、手作業ものと機械ものとの見分け方が書いてある。なるほどなるほどと思いはしたが、手作業品ばかりに軍配を上げるつもりはないので、そこに惹かれたわけでもない。ただ、ドイツ製というのには正直惹かれてしまった。カメラに親しめば、やはり輝かしきドイツカメラの薫陶を受けることになる。これはひとつの刷り込みで、ドイツ製のものならば、一段上に置いてしまうのだ。どうにもこうにも。かくして、今、手元にはこのドイツ製のブラシがある。移動がちな僕のスーツケースやバッグに放り込むには少し大ぶりな品だが、これからは良き友人として、旅を共にしてくれるであろう。値は、2300円。今週はジャケットや春のコートを買いに行こうか。今日まで暖かいのだと、昨日の天気予報は告げていた。予報は小さな予言だな。

              この表札から

              2017.03.19 Sunday

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                懐古趣味は全く無いが、雑居ビルのその表札に足を止めた。その造形、風合いを見つめ、iphoneで写真を撮る。現代美術鑑賞のように、文脈から読み解くある程度の知識を必要としない雨ざらしの美が目の前の少し上方にある。ジャンプすれば触れないこともないが、壊すとまずいのでそれはしない。このおっさん何を見てるんじゃ?という感じの通行人の眼差しを気にせず、なおも見つめる。そんなつもりはないが、この表札への感動は僕のどかかにしまわれて、いつかひょいと何か別の形となって、現れるのだろう。それまでは、蝉の幼虫のように意識の土中に潜伏しては、機をうかがうのだ。なんとも可愛らしい。林ビルの表札は、電源コードで繋がっている様子で、夜になれば後ろからライトアップされるに違いない。夕暮れすぎの客への配慮か、オーナーの遊び心か。これが設置された数十年前のある日は、入り口脇にでもあろうスイッチをパチクリパチクリとやっては、点いただの、綺麗ねだのという声が聞こえただろう。鬼籍に入った当時の主人や周囲の旦那や女性たちと肩を並べるような想像までしてから、その場を去った。見る、聞く、触る、嗅ぐなどで得た感覚を、ちょっとした想い巡りでかき回し、一口飲んでは、残りを放っておく。僕のいつもが、昨日も、今日も、明日もいく。つまづくことは稀である。

                かけうどん

                2017.03.18 Saturday

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                  福岡のうどん屋、かまきりさんに寄った。佐賀の酒・鍋島を1合とカツオ酒盗、湯葉とろろ豆腐をつまみに、夕刻から、ゆるりと過ごした。西日の入る店内で、酒に強くない僕はわずかに地軸を傾けながら、春の気配に心身を泳がせつつ、小さな幸せを喉に通しては、胃が笑うのを笑うがままにさせていおいた。夏はビール、冬は日本酒を好む僕は、春の気配に日本酒の季節が終わるのだなと少ししんみりしながらちびりちびり。客がぽつりぽつりと入るたびに流れ込む外気の冷たさが心地よい。酒を呑んで、しめに蕎麦というのは東国のものだが、食都福岡では、蕎麦とうどんが入れ替わる店がいくつかあって、それぞれ流行っているようだ。東のせいろに対して、ここ福岡では、かけうどんを注文した。以前訪れた時に食した、ひんやりとしたすだちうどんも良いのだが、それはも少し暖かくなってからにと見送って、冬の終わりに手を振ろうと、熱いかけうどんにした。ずずぞっ、ずずそっ、と口を尖らせてうどんを吸い上げ頬張りもぐもぐすれば、全身でため息つくより他はない。僕は時々ナイフみたいに尖ってしまうので、誰かを傷つけないためには、こういうため息をつく方が良いのだ。そういえば、フミヤさんの歌声、最近聴いてないなあ。


                  ミモザ

                  2017.03.17 Friday

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                    ヨーロッパの文学中に出てくるライラックに憧れていた時期があった。大学生の頃だっただろうか。田園の描写や、恋の詩の中に出てくるライラックを国内で初めて見たのは青森で、僕は当時まだ見ぬヨーロッパの景色の一部をそこに見ては、感動していた。ある程度寒い場所でないと育たないライラックは、関東では今に至るまで見たことはないが、草木への恋のような憧れは、以来僕の中に居座っている。今朝の散歩で偶然見つけたミモザの木。福岡高宮の住宅地で朝日を存分に浴びて伸びをするように黄色い花を咲かせていた。草の花も美しいが、木に咲く花の見事さも、僕は愛している。マメ科の木が持つ細かい葉を分けて咲くミモザは、本来アカシアという名前で、ミモザとはもともとオジギソウの名前である。まったく別の植物の名前が通称となっているのもユニークだ。ま、それはいいとして、木の高さにある黄色というのは、たとえばタンポポのように地にある黄色とは違って、空に属している。空の青、空の白、それらをパートナーとするミモザの黄色は、頭を上げて眺める黄色であり、その姿勢ゆえに希望を宿している。僕たちは不思議とうつむいては希望を持てないのだ。地に咲く黄色は慰めてくれる。空に咲く黄色は、希望を示してくれる。朝にミモザを見上げる季節は、希望の季節だ。さあ、今日も生きよう。

                    ダイソンのハンドドライヤー

                    2017.03.16 Thursday

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                      熊本のキャッスルホテルにある中華・桃花源で昼食を済ましてトイレに入ると、dyson製のハンドドライヤーに出くわした。斬新なデザインと機能を持つ掃除機や扇風機で有名なdyson社だけに、さすがに数多のそれらとは違い、手を乾かすという役目以上の外見的な存在感がある。即物的な使用の先に、遊び心があり、手を乾かすことが楽しいことに思えてくる。エイの顔のような、ポケモンのモンスターのようなユーモラスな顔が、せわしなく手を洗い、そそくさと出て行こうとする前のめりな慌ただしさに、一寸のコンマを置いてくれる。お、いるな、と、そのドライヤーを見た時に、瞬時にそれを生み出した人々の気配を感じた。熱意や愛情などの質高い感情は、容易に時空を超えると信じている。目の前のハンドドライヤーにはそれが残っていた。企画、デザイン、生産、営業などの流れの中で、良質な感情が付加され、結果素晴らしいプロダクツとなって周知なものとなる。その幸福な製品は、デザインや色の好みを超えて、目の前にさらっと現れて、僕の足と視線を止めることになる。そして、それらを実際に使うことで、質高い感情を受け取るという循環が生まれていると思う。全ては循環の中にある、というのが僕のベースにある。循環にも周波数のようなものがあり、どの周波数に同調するかは、自分自らもその周波数を発することが必要となる。例えばdysonの製品の波動を受け取るには、それと同種の波動で生きることが前提になる。貴賎の話ではもちろんない。区分についてである。波動を合わせるにはどうすれば良いのか。それは案外簡単で、それと共にする時間を増やせばいい。好きなものをじっと見つめる、触れる、そんなことで同調が生まれる。逆に言えば、好まない物、人、環境は避けておくに限る。否応なく同調してしまうから。時代さえもそうだ。僕は、常に別の時代や環境に同調している。はみ出し屋稼業ゆえに。