1月のひまわり

2017.01.22 Sunday

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    SIGMA sd Quattro H 35mm1.4f

    沖縄の中部では、1月から2月にかけて向日葵が見ごろとなる場所がある。僕の家の近所なので、毎年散歩がてらによく訪れる。今日はSIGMAの約5000万画素相当のsd QuattroHを相棒にでかけてみた。すでに見ごろの時を迎えた向日葵たちは、夕刻のせいか顔を西に向けていた。向日葵は夏の誕生日の頃に咲く花として思い入れがあるが、本当に好きなわけではない。最近ではバラの方に興味があって、佐藤奈々子さんが撮るバラの影響もあって、いつかバラの写真集を出したいと考えているくらいだ。だが、夕刻のバラは案外美しいのだった。昼間の順光をたっぷり受けたバラも良いのだが、夏休みの終わりを思わせる斜光の中の向日葵は、どこかノスタルジックであり、日本のというよりも、やはり南仏の少年時代に思いを馳せてしまうのだった。もちろん僕は千葉育ちなので南仏の少年時代などありはしない。南仏からもう少し広げて南欧と言い換えてもいいだろう。いずれにして、日本ではない遠い場所で過ごした夏の終わりを感じながら撮影した。帰ったらワインでも飲もうかなと思いながらシャッターを丁寧に切っていく。そして今年はまともにアルコールを飲んでいないことを思った。向日葵はアルコールなしでも揺れている。それでいいかな。

    小説家

    2017.01.20 Friday

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      iPhone 7+ 撮影・若木信吾

      今年は久しぶりに小説を書く、と公言しまくっている。僕の肩書きには、小説家ともあるのだが、実際しばらく発表していないので、その看板をあげておくのも心苦しくなってきた。でもそれが理由ではない。もう少し、いや、かなり積極的に小説にどっぷり浸かってみようと思ったのだ。そろそろ本腰をというのが、理由といえばそれに当たる。十年ほど前に柳美里さんに初めて会った時、会話の中で「小説を書きたい」と僕が伝えた時、彼女は「今まで沈黙を守ってきたらなら言いたいこともあるでしょう」と言ってくれた。なんとなく励まされた気になって、僕は小説を書いた。山田詠美さんと吉祥寺で差しで飲んだ時は、「冥砂の文はいろいろ問題あるけど、いいよ!」と褒められた。それに押されて僕は小説を書いた。吉本ばななさんには自著の旅行記に「こんな文を書きたい」という言葉をいただいた。僕は、尊敬する三人の作家に褒められて、その気になりはしたが、全てを捧げて書き上げた一作がない。それをいつも後ろめたく思い続けてきた。そう、今こそ僕は小説家になろうと思うのだ。随分と決意が遅れたものだと呆れつつも。友人の西加奈子さんの絵の個展のオープニングに足を運ぶと、小説家たちがいた。名前が分かったのは、柴崎友香さん、中村文則さんだったが、おそらく小説家に違いないと思われる人たちが集まっていた。自分よりも若い小説家たちである。柴崎さんの芥川賞受賞作「春の庭」は、僕がモデルの一人となっていると本人に言われ照れくさくもなぜか嬉しかった。そのうち若木信吾くんが現れた。写真家仲間として同志が現れたような気がした。その彼が、集った人たちの一部に記念撮影をかってでてくれた。僕の隣の西加奈子さん、柴崎友香さんも、良い笑顔だ。若木くんは記念撮影もうまいのだ。僕は今年も写真家だ。そしてこれからも。だが、広げようと思うのだ。自分の遊ぶ場所を。小説を今年はしっかりと書く。

      読書はカバーなしで(西加奈子「i」について)

      2017.01.20 Friday

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        OLYNPUS STYLUS TG4

        西加奈子さんの新作「i」を読み終えた。彼女の魂の叫びが切実に届く作品で、ここを軸に現代の世界がぐるりと見渡せるようなスケールもあった。読めて良かったと思う。西さん、ありがとう。いい本はなぜか装丁も素晴らしいことが多い。とはいっても、カバーを外して本を読む僕には、その装丁をしっかりと楽しむのは一瞬のことで、本体に巻かれた紙を除いてしまった後の、言わば生身の本との付き合いの方が読書の記憶と重なる。本体を痛みから守るのがカバーの意味なのだから、僕のしていることは、道理に合わない。だが手にすれば分かるが、カバーがない方が、手の中での収まりが断然いいのだ。大切に扱うとはいえ、バッグに無造作に入れられる本は、やはり痛む。読了後にカバーを巻いて書棚にしまえば、まるで新品がそこにあるかのように並ぶ。古物が新品に帰るというのは、なかなかいいものだ。ちょっとした現実離れの愉しみでもある、と思った次第。

        縄文米

        2017.01.18 Wednesday

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          iPhone 7 plus

          雑穀米なら、これと決めている。無農薬で育てられた12種類の雑穀を米と混ぜずにそれだけで炊くのが、何よりも美味しい。健康のためでなく、舌のためのちょっとした贅沢品だとも思うほどに。雑穀米といえば、健康道場的な、美味しくはないけれど健康に良いらしいから我慢して咀嚼する、というイメージがあるかもしれないが、本品はそこから随分と離れて、ただ、ただ美味しい。昼時に呼ばれた友人宅で出されたおにぎりは、まさに雑穀米によるもので、具はおかかチーズ。白ごまをちょっと散らしたその様は、見た目にも豊かで、喉が鳴る。こちらは米と共に炊かれたものだが、おにぎりにするなら、これがいいだろう。職人による手の込んだ料理の数々と比して退けをとらないのは、言うまでもない。素朴とは、貧しさを言うものではなく、むしろ、本物の素朴はその逆で堂々と胸を張っている。もぐもぐと噛み締めながら、知らずに姿勢を正してから喉元を通した次第。
          ほんき食品http://www.rakuten.co.jp/jomon12k/

          草に思うこと

          2017.01.18 Wednesday

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            SIGMA sd Quattro 35mm 1.4

            ついつい草の写真を撮ってしまう。花というよりも、草の葉や茎に惹かれ無造作に撮っているのだが、その数は地球を半周するぐらいのイメージだ。そのうちまとめて出版したいと思うのだが、花や森などの植物写真と比べて、いささか頼りない。僕は多くの人に届くような物作りを常としているので、最初から間口の狭い場所に入ろうとは思わない。大勢の人たちや、大勢に支持されるものには興味がないくせに、いざ自分が作るとなると、その先にある多くの受け手を求めてしまうのは、虫のいい話ではなる。それでも案外、草写真集というのは、いけるのではないかな、と夢想もする。空き地があるような気がするのだ。そう、草そのものが空き地を好むように、全てが出尽くしたと思われがちな各分野にも、必ず空き地があると思う。ただ、空き地を空き地として放っておくのも清い造作だ。常に空き地という商機を探すのも品がない。自然と空き地に生えた草のようにありたいものだ。

            高見のお好み焼き

            2017.01.16 Monday

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              OLYNPUS STYLUS TG4

              広尾の鉄板焼き・高見に行った。おそらく二度目だと思うが朧だ。広尾高校の前のビルの外階段をトントンと上がり、ゆったりと配置された席に座る。去年末から酒を飲んでいないので、ビールの注文コールに挟まれながらほうじ茶と小さく声を出した。この店で働いていたこともある友人に全てを任せ、出てくる品々をただ旨い旨いと述べながら、ゆったりと食事は進んだ。鉄板焼きの数々の中でもカニコロッケとか高見ハッシュポテトなるものが印象的だった。中でも小麦粉をほとんど使わないというお好み焼きには驚いた。どっしりべっとりなお好み焼きのイメージから勇気をもって逸脱し、実にふわふわで軽いものとなっている。野菜も有機とはうたってはいないが、かなりこだわっているとのこと。さらに主人はマクロビの実践者だとも聞き、山種美術館の裏にあるあの店だよ、と近々友人を誘うことになるな、と思った次第。

              瞑想ワークショップ

              2017.01.15 Sunday

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                iPhone 7plus

                昨年から、東京で瞑想ワークショップを始めた。初心者対象とした6名の少人数制で、月に2、3度のペースで催している。女性の参加者がやや多いが、興味を持っていたがきっかけがなかったという人がほとんどで、内容のシンプルさにおかげさまで好評をいただいている。5分、10分、25分と三回の瞑想の合間に、説明や休憩が入り、最後やお茶とお菓子で、ゆるゆると過ごすといった内容だ。終了後は、一様に心身がすっきりしたという感想をいただくことが多い。晴々とした参加者さんの表情は何よりも嬉しい。特別な用意も不要で、日常生活に取り入れやすいセルフヒーリングの方法として、これまで以上に広まっていくと思う。近い将来、瞑想はちょっとしたたしなみになっているかもしれない。ジョギングなどと並列に語られるような感じで。「最近瞑想してる?」「うん、昨日は休みだったから、朝30分したよ」実際、僕の周りではこんな会話が始まっている。

                NISSANのコンセプトカー

                2017.01.14 Saturday

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                  iPhone 7 plus

                  NISSANのショールームにぶらりと寄った。(ほとんどの行動はぶらりだなあ)GTRの奥にある見慣れない車に惹きつけられて近づくと、それは思いの外僕の心に迫った。そこにはマシーンがあった。車と呼ぶには、あまりにもマシーンなのであった。ちなみに僕はその手のマニアでもないし、特に興味もない。そもそも僕はマニアにはなりづらい通りすがりの見物客的な性質を持つ男だ。だが、目の前のマシーンには圧倒されたし、惹きつけられた。僕と同じように被りついているスペイン人の家族が、夫婦、息子、娘と世代と性を超えて感嘆していた。いいものはいいのだ。そう当たり前のことを呟く。見慣れないから目立ったいるのではない。良いから目立っているのだ。細部、外部、全体の塊。それぞれに目を散らしても飽きない。そんなものに出会いたい。そんなものを作りたい。

                  松陰神社

                  2017.01.13 Friday

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                    iPhone 7 plus

                    全国津々浦々、神社を巡っている。寺よりも神社が好みで、出張のたびにホテルのレセプションで土地のオススメを聞き出しては足を運んでいる。よく飽きないものだと思うが、実は飽きていたりもする。それでも運ぶ足どりがよろめかないのは、ただの散歩見物以上の何かがあるのだろう。で、自分が神社めぐりが好きだと会話に挟むと、必ずどこが一番かと返される。その時のために引き出しの上段にいくつか用意しておこうと思うのだが、先日訪れた世田谷の松陰神社はそこに収めておくのにうってつけだと思った。観光地としてはマイナーな部類だが、品格、佇まいにおいて、また発する波動の気持ち良さが、素晴らしく、これは上段で間違いない。お守り、記念品の類は滅多に求めないのだが、「志」の文字だけ縫われた白地のお守りには、心惹かれた。正月祝いの空気がまだ残っている頃に訪れたせいもあるのだろう。初心を思わせる「志」の文字と、松蔭さまの短い生涯が重なり、これを胸に忍ばせて送る一年の豊かさを想像した。だが、結局求めなかった。訳はない。大方の動作に訳もないように。

                    詩の朗読

                    2017.01.12 Thursday

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                      iPhone 7 plus

                      今年は詩集を出版する。手始めとして、雑誌SPADEで5篇、自身のタブロイド写真集WISTERIA01で4篇をすでに発表した。ほとんどが恋愛詩であり、もしくはそこから広げられた希望の世界を歌っている。なぜ詩なのかと問われれば、そこに詩でしか生まれない何かがあったから、ということになる。詩でしか生まれないもの。僕の中にもそういう何かがあるのだ。詩を書いていて思うのは、それは本来紙に書かれ黙読されるものではなく、作者が読み上げるのを聞くもので、つまり音楽のように耳で楽しむのが筋ではないかということだ。それをふまえた試みとして、写真展wallallの開催記念として作ったタブロイド写真集を求めていただいた方に、その中の好きな詩をひとつその場で朗読させていただくことにした。時間にして僅か1分に過ぎないのだが、詩が音となって宙に浮かぶ時、その場の空気がピタリと止まるのを感じた。言うなら、空気が詩を聞いているのを感じた。不慣れな朗読なので自分が緊張しているだけかもしれない。読み終えると、聞いてくれていた人も一仕事を終えたような表情をしてくれる。おそらく彼らも聴き慣れていないのだろう。だが、その僅かな1分は、何にも似ていない1分であることは間違いない。願わくば、豊かな1分にしたい。あまり上手くならないように精進、精進。
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